こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第2期㉙:1360年」です。

細川清氏、畠山国清、仁木義長を揃えた北朝軍はあと一歩のところまで南朝を追い詰めます。
しかし、楠木正儀の離反工作が功を奏し、北朝軍は撤退。
7月には仁木義長を排斥するために兵が集められ、それを勘付いた仁木義長は将軍義詮を人質にして対抗を試みる有様。。。
結局、将軍義詮は佐々木道誉の策略で脱出に成功し、仁木義長は退散します。
これにて仁木義長が中央から排斥されましたが、今度は執事・細川清氏の専横が目立つ結果を生みます。。。
延文5年/正平15年(1360年)年表
1/30 | 南朝・北朝の和平工作(失敗)が発覚 ※公家どうしは全くそんな気はなかったため、おそらくは前線の武将、楠木正儀(南朝)と細川清氏あるいは畠山国清によるものと思われる。この工作は失敗。 ※将軍義詮を総大将とする北朝は細川清氏、畠山国清、仁木義長という当代きっての武闘派を揃えて攻勢 |
3/17 | 畠山国清、昨年末まで南朝の行宮があった金剛寺を焼き払う ※楠木正儀の献策で事前に行宮を移動させていた |
閏4/9 | 平石城合戦 赤坂城の支城の1つ、平石城で畠山国清vs南朝。 |
5/8 | 楠木館合戦 再び畠山国清。この時期、国清は一時的に河内・紀伊国守護に復帰したという見解もされている。翌日落城。国清は一定の戦果を得たとして5月下旬に帰京。 |
5/ | 細川清氏、河内赤坂城を陥れる 細川清氏vs楠木正儀。 これにより南朝は風前の灯となる。 |
5/27 | 幕府軍、撤退 ※厭戦気分と仲違いであと一歩で南朝を滅ぼすことができる時点で撤退。これは楠木正儀による離反工作が成功したという見方も。 |
7/6 | 細川清氏、再び大軍を集め、仁木義長排斥を画策 ※名目は南朝掃討であるが、真の目的は仁木義長を討つこと。 ※この時期、仁木義長は京都で将軍義詮を守っていたが、清氏の目的を知って義詮を人質にして抗戦する構えを示した。 |
7/18 | 佐々木道誉の策略で義詮、女装して脱出 ※義長は自邸を焼いて本拠の伊勢へ没落。これにより義長は守護分国すべてを失い、伊勢志摩守護は土岐頼康、三河守護は新田大嶋義高に交代。 |
7/ | 細川清氏、畠山国清、河越直重ら、摂津国天王寺に出陣し仁木義長を破る ※ついに仲違いが合戦に発展。 |
8/15 | 畠山国清、東国に帰国 ※仁木義長との戦いをはじめる国清をみて東国武士に厭戦気分が広がり、戦場を離れるものが続出したためやむなく畠山国清も帰国。 ※仁木義長に味方した吉良満貞らの妨害を受けたがこれらを一蹴 |
8/ | 8月以降、細川清氏による横領停止・下地沙汰付を命じる奉書が多数 ※明らかに主君の権限を侵していた |
10/14 | 細川頼和(細川清氏弟)、丹波守護仁木頼夏(細川清氏弟、仁木頼章猶子)討伐へ ※清氏から見ると弟同士の戦い。頼和勝利。仁木頼和は越中守護に。若狭守護の清氏と合わせて、北陸地方を清氏一派で固める狙い。(細川清氏は1357年6月に斯波高経の越前守護を所望して拒否されて出奔した過去もあり、北陸地方に執着している) ※仁木家にしても細川家にしても岡崎市が出身なので、関係性が近すぎるんでしょうな。 |

オラオラオラオラオラオラオラオラー!南朝なんてケチョンケチョンにしてやるわい!!

さすが畠山国清さん。わしもやったるわ!オラオラオラオラオラオラオラオラ!

南朝が分が悪いのはわかっておる。和平工作は失敗したけど、こんな時、父上がどうしたかもう一度、思い起こして欲しい(コチラ:1333年千早城の戦い)。ほおれ、相手が仲違いして撤退したぞ。作戦通りじゃ。
【楠木正儀】(1330頃-1388頃)
楠木正成三男。兄・楠木正行および正時は1348年四條畷の戦いで高師直により敗死。弱体化する南朝において京都を4回奪取するなど、有能な戦略家である。槍部隊を始めて用いたことでも知られる。

やっぱり仁木義長が許せん!畠山国清どの、良いですな。

おう!仁木義長の野郎、大して強いわけでもないのにイキがりおって。

なんか今回の遠征は様子がおかしい…。さてはワシを討つ気じゃな。こうなったら義詮を人質にして戦っちゃおっか。

義長ってのは本当に悪知恵の働くやつだな…。若、女装して逃げなはれ!

とりあえず仁木義長って奴をボコボコにすりゃあいいんですな。ふん、大したことないやつめ。

…私らは南朝を倒すために参じたんですが、あんたらの喧嘩に巻き込まれるのはゴメンだぜ。

おいおい!お前ら、勝手に帰るなー!ってあとで覚えとけ!!

なんとか一件落着したけど、最近、細川清氏、調子に乗ってませんかね。執事の仕事を勘違いしているようでございますな。

道誉、危ないところをありがとう。それにしてもみんな血の気が多くて困る。。。