こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第3期⑤:1372年」です。
九州探題として九州に足を踏み入れた今川了俊の勢いは止まらず、8月に大宰府を落とします。
ただ、5月に博多に訪れた明の使節にはお互いに驚いたようです。
応安5年/建徳3(文中1)年(1372年)年表
| 4/- | 南朝、文中に改元 |
| 5/ | 朝貢を結んだ明の使節、博多に到着 ■前年、明は懐良親王と冊封関係を結んでいた。 ★ところが、使者たちは思いがけない光景を目にする。昨年まで懐良親王が支配していた博多が今川了俊が支配する地域となっていたのだ。今川の方も突然の来訪者の出現にとまどい、とりあえず使者を博多に抑留。抑留は1年以上続き、翌年6月に京都へ。 ★京都の政府が列島を支配していることを知った使節は、交渉相手を京都にした。しかし、日本側の対応は冷たく、細川頼之も外交に消極的であった。ただ、頼之としても全く無視するわけにもいかないとのことで、日本側の使僧と、被虜人150人を彼らの帰国時に送還した。 |
| 5/ | 大覚派僧侶数百人が徒党を組んで円覚寺に放火未遂 ■当時、建長寺(ざっくり言って大覚派)と円覚寺(ざっくり言って仏光派)が争っていた。これは禅宗内部の対立であり、夢窓疎石の台頭によるところが大きい。 ★夢窓疎石は仏光派。鎌倉の円覚寺を開いた無学祖元の弟子、高峰顕日に学び、無学祖元を「仏光禅師」と呼んでいたためである。 ★一方、「大覚派」とは、大覚禅師・蘭渓道隆に学んだグループ。蘭渓道隆は建長寺の開山であり、鎌倉にある禅宗寺院の第1位は建長寺であった。しかし、夢窓疎石の台頭により2位であった円覚寺が勢いを増してきたため、それを快く思わない建長寺および大覚派との確執が表面化した。 ★夢窓疎石の弟子で、鎌倉府と密接な関係をもっていた義堂周信は中立の立場から党派の争いを非難していたがなかなかおさまらなかった。 ■この知らせは京都にも伝わり、幕府は大覚派を役職から追放すると指令を出す。これによって、ようやく建長寺側も和解を考え始めた。 |
| 8/12 | 大宰府陥落 ■九州に渡った今川了俊が大宰府を攻め落とす。11年に及ぶ征西府の支配が終了【コチラ】。以後、前線は南下して高良山(福岡県久留米市:天然の要害)が戦いの舞台となる。 |

あれ??(懐良親王がいない…??)

え??誰??なぜ??

今川了俊は強い!ちょっと態勢を立て直せねば。

大宰府は制圧した。みなのもの、ご協力ありがとう。
さらに南下して九州を統一するぞ!
さらに南下して九州を統一するぞ!

それはそれで…困るんじゃがな…

ははは。こんなにスムーズに大宰府を制圧されるとは…。