こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第3期⑬:1380年」です。
安芸・長門の大内氏領内で内戦が勃発。
最終的に長男、大内義弘が勝利し、父・大内弘世は死去、三男の大内満弘とは和解となりました。
一方、畿内では山名氏清が南朝として蜂起した橋本正督を討ち取ります。
また、これまで神威を背景に政治的な主張を通すために行われていた興福寺の「強訴」は歴史上、初めて「失敗」に終わりました。
康暦2年/天授6年(1380年)年表
| 1/5 | 足利義満、従一位昇進 ★尊氏、義詮ともに死の直前に得た位階である |
| 5/10 | 大内家の「康暦の内戦」勃発 ★「長門・栄山の戦い」が開戦となり、満弘(三男)方が義弘(長男)方を破り、栄山(山口県山口市)を占拠。義弘の主立った家臣二十数名も討ち取る。 ★この地での戦いは5ヶ月に渡り、最終的には義弘が勝利。 |
| 5/28 | 安芸内郡の戦い(場所不明)で義弘方が満弘方を破る ★安芸(広島県西部)でも戦いが勃発。 ★安芸には満弘(三男)方の本隊もあったが、幕府の支持があった義弘(長男)方が勝利。 |
| 7/17 | 山名氏清(和泉守護)、橋本正督を討つ ★突出した軍事力を誇る山名家が近畿にも進出して南朝勢力を圧迫。 ★元々この地を勢力圏としていた楠木正儀にとっては後ろ盾であった細川頼之の失脚とともに死活問題となった。 |
| 9/ | 明との交渉が不調に終わる ★義満は「日本国征夷将軍源義満」名義で交渉を始めようと使僧を南京に派遣するが、天皇の家臣との交渉は受けないとの理由と、宛先を丞相にしたという理由で入貢を拒まれた。 |
| 9/ | 荒山戦闘(@高麗) ★南原城をめぐって倭寇軍と高麗軍が激闘。総指揮官に任命された李成桂の活躍で高麗軍が勝利。倭寇(前期倭寇)に大打撃を与える。 ★李成桂はのちに李氏朝鮮を建国(1392年)。 |
| 10/5 | 大内義弘、栄山奪回 ★これにより康暦の内戦もほぼ決着がつく。 ★ただ、「康暦内戦」は大内義弘と満弘の対立ではなく、南北朝内乱を契機に国人層が庄園を押領し、自らの支配下に置こうとしたのに対して、幕府がこれに歯止めをかけようとした争い、という見方もできる。 |
| 10/8 | 今川仲秋が肥後水島城を陥落する。 |
| 11/15 | 大内弘世、死去 ★当時の大内氏は義弘が実権を握りつつあったにもかかわらず、鷲頭氏をはじめ多くの重臣が満弘陣営に参加していることなどから、義弘と満弘の戦いではなく、義弘と彼を廃して満弘を後継者にしようとした弘世(父)の戦いと考えられている。 |
| 12/15 | 興福寺の強訴(康暦の強訴)、初めて失敗に終わる ★昨年から興福寺の強訴が続いており、藤原氏関連の公家は仕事を控えていたが、足利義満は「自分は藤原氏ではなく源氏なので関係ない」として一時中断していた御遊始・作文始・歌会始などを立て続けに大々的に再興。 ★これらの示威により、興福寺衆はなすすべなく幕府の十市討伐の約束以外に具体的な成果を得ることなく奈良に戻ることとなり、歴史上初めて神木入洛による強訴が失敗に終わった。 ♨いろいろ調べても、納得する理由がなかったのですが、過去に衆徒と室町武士が戦闘になっている例もある中、戦闘にすらならなかったのは、幕府の軍事力が高かったからではないか、と考えておりますが、どうなんでしょう…。 ♨1374年の時点ではまだ権門寺社に振り回されていただけにこの6年でえらい進歩ですね… ★もっとも、年が明けると幕府は興福寺に使者を派遣してこれまでになかった直接対話を行って興福寺側の要望を訊き、延暦寺に対しても幕府との直接交渉ができる山門使節の設置を認め、所領興行や仏事再興にも取り組むなどの硬軟両様の使い分けを行っております。そのため、後に義満が南都参詣(1385年)した際は南都の僧侶たちはこぞって歓迎しました。 |
| -/- | 細川一門、赦免 ★年末、足利義満、細川頼元(頼基から改名)へ河野氏との和解を命じる御教書を与える。 ★これにより細川頼之を含めた細川一門は赦免されたことに |

室町幕府なんて概念は俺にはない。俺は俺の好きにさせてもらうわ。

いや、室町幕府によって平和が築かれるのです。
父上といえども、意見の相違はしょうがない。
父上といえども、意見の相違はしょうがない。

まあ、これは義弘に勝ってもらわないと困るわ。
それより、南朝の橋本正督はどうなった?

ども。あんな奴は屁でもないですわ。私にかかれば。

そうか。だろうな。じゃあ、そのまま畿内に居座ってくれ。
そして興福寺の奴らはどうなった??

興福寺のやつらは帰っていきましたぞ!

そうか、そうか。
あと、明との貿易はもうちょっと考えないとだな…

義満さま、立派になられて…