こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第3期⑮:1382年」です。
後円融天皇は息子の後小松天皇に譲位します。
しかし、即位礼の準備は一切せず、即位礼にも出席しませんでした。
後円融天皇のキャラクターによるところも大きいかも知れませんが、これには深い理由があった…からかも知れません。
永徳2年/弘和2年(1382年)年表
| 1/26 | 足利義満、左大臣昇格 ★以後7年ほど在位。 |
| 閏1/- | 楠木正儀、南朝に帰参 ★細川頼之という後ろ盾を失った楠木正儀は北朝内で孤立。南朝に帰参する。 ★これに対して幕府は山名氏清を送り込み、河内国平尾の戦いで楠木正儀は敗退する。 ★南朝は楠木正儀の帰参により和平派が息を吹き返し、穏健な後亀山天皇を擁立する動きが作られたと考えられる。 |
| 閏1/11 | 後円融天皇、またもや足利義満に皇位継承の明言を求める ★義満は苛立ちを隠せず。「何で昨年末に協議したのに同じ質問を繰り返すのか。そんなに言うなら正式な手続きで私に統轄するよう命じて下さい。」 ★義満は廷臣たちから要らぬ反発を買わないためにも陰ながら行う立場に徹したかった。 ★ちなみに譲位の費用(皇居の修理費などが含まれる)は現代のレートで1億円(ちなみに平成天皇の譲位費用は35億円、2020年東京オリンピック予算は3兆円)であり、さほど高くはないものの、その費用を朝廷で賄うことは無理で、すべて費用は幕府持ちであった。 |
| 3/3 | 足利義満、「譲位費用がない」と天皇の前でつぶやく ★二条良基と義満、後円融天皇の会議で義満は「譲位費用がない」とつぶやく。しかし、そんなはずはない。単に揺さぶり。 |
| 3/28 | 足利義満、牛車宣旨を許される ★牛車に乗って参内できるようになる |
| 4/11 | 後小松天皇(幹仁)践祚 ★義満の資金不足(のちに相国寺を建てるくらいなので本当はそんなはずはない)のため、当初の予定より1ヶ月くらい延びたが、無事に譲位がされる。 ★幹仁は義満の家から同じ車で式に向かう。これにより義満が後見人であると万人に知らしめることとなった。 |
| 4/21 | 足利義満、院執事となる ★しかし、実際に院に足を運ぶことはない |
| 5/6 | 後円融、上皇となって初めての湯浴み(沐浴) ★院の女房、三条厳子らも湯巻を来た。しかし、この時、彼女は妊娠2ヶ月。妊娠による症状(つわりなど)が出始めてもおかしくない。 ★この頃を境に義満と後円融の仲が明らかに悪化していることから、後円融は義満と厳子の密通を疑ったのではないか?(by桃崎有一郎先生) ★義満は他人の妻と関係を持つことから疑われても致し方ない。 |
| 9/ | 後円融天皇、後小松天皇の即位礼の準備をボイコット ★後円融天皇は院政を敷くつもりでいたが、誰にも相手にされず、これに不満を持った後円融は即位礼の準備をボイコット。 ★「将軍と仲違いしてどうして院の希望が実現できようか」と廷臣たちも訝しがる。 ★ただ、この頃には厳子も妊娠6ヶ月となり明らかにお腹が大きくなっているはず。 ★結局、再三の催促にも関わらず準備を始めなかったため、10月下旬より義満と二条良基で準備開始。 |
| 10/ | 足利義満、相国寺造営開始 ★資金不足とつぶやいていた割にはこれみよがしに短期間で完成 ★もともとは「昌国寺」で、「国をさかんにする」という意味があったが、「国をみる」に変わった。太政大臣の別名も「相国」である。 ★翌年には自らの禅宗の修行場として塔頭鹿苑院も創建する。 |
| 12/23 | 三条厳子、出産 ★本当に後円融天皇の子であれば後円融天皇も精神的にここまで追い詰められることはなかったのではないか。 |
| 12/28 | 後小松天皇即位礼 ★後円融天皇は欠席。「もう生きていてもしょうがない」と嘆く。 |

北朝ではもう立場がない。もはや南朝に行くしかない…

落とし前つけてもらおっか、そう簡単にはいかせんぞ

義満よ、、頼む、、次の天皇は幹仁にするってみんなの前で言ってくれ…

天皇、それは昨年末に話し合ったことでしょう。心配いりませんよ。
でも、そんなに何度も何度もしつこく言わないでくださいよ、こちらにもタイミングというものがありますから。
それとも、責任も含めて全部こちらに任せないで、ご自身ちゃんと正式な手続きを踏んで、私を担当者に任命したら良いじゃないですか。

うぬぬ…
まあ、とにかく幹仁に譲位できて良かった、、ありがとうよ…

はいはい、じゃあ、今度は即位礼ですね。
あれ?

え…もしかしてできちゃったかも…
足利義満ほお。誰の子でしょうね笑

ホントに誰の子なんだ…!!
もう生きていてもしょうがない…

仕事してくださいな…
義満さま怒ってますよ

その義満を一番疑ってるんだっ!!