こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第1期②:1337年1-6月」です。
北陸へ移った新田義貞ですが、高師泰を総大将とする足利軍の攻撃を受け、金ヶ崎城を失います。
この戦いで尊良親王は自害し、恒良親王は捕縛され、後日、殺害されました。
義貞は杣山城へ移動し、再起を図ります。
建武4年/延元2年(1337年)1-6月年表
1/8 | 北畠顕家、霊山(福島県伊達市)に移動 ※陸奥の有力武将の多くが尊氏方となっており苦戦(安藤氏、曽我氏ほか)していた。 ※白河結城氏、南部氏、伊達氏は後醍醐方であり、伊達氏のいる霊山へ本拠地移転。 ※関東も下野小山氏、常陸佐竹氏が足利方に寝返っていた。 ※多賀城周辺で留守氏が分裂・抗争を繰り返していたことも移転理由の1つ。 |
1/18 | 足利軍、新田義貞らが籠城する金ヶ崎城へ攻撃 ※義貞と親王たちは金ヶ崎城へ入るが、早くも高師泰を総大将として、斯波高経、仁木頼章らが包囲する。 ※足利方は義貞の拠点である上野国も同時に攻撃するなどぬかりない。 ※義貞に味方しようとする北国の勢力の分断、撃滅も図っていた。 ※義貞は「無双の要害」と言われた金ヶ崎城で徹底抗戦。瓜生保も尊氏から送られた綸旨が偽物であると気づき、再び義貞の配下となり応戦。 |
2/16 | 脇屋義助(新田義貞弟)、高師泰の背後をつく ※ただ、雪のため挟撃するタイミングがつかめず、再び籠城。兵糧攻めに遭う。 |
2/25 | 義貞、義助らとともに物資調達のために杣山城(福井県南条町)へ向かう ※この隙に総攻撃を受けてしまう。 |
3/6 | 金ヶ崎城陥落 ※兵糧攻めは過酷を極めていた。 ※新田義貞息子の義顕自害、尊良親王は投降を進められるがともに自害。 ※恒良親王は捕らえられ、京都へ搬送され、成良親王(一時は皇太子となっていた弟)とともに毒殺される。 ※後醍醐は北畠顕家に再上洛を要請する。 (※ちなみに高師泰は以前、矢作川の戦い:1335年11月で義貞に苦杯を喫していた) |
3/13 | 義貞、越後国から連絡を受ける ※翌日には返答し、佐々木忠枝を越後守護代に任命。のちの越後の義貞与党の蜂起につながる。 |
4/5 | 後醍醐天皇から結城宗広に上洛の遅参をなじる文書が届く ※そうはいっても、奥州も容易ではない情勢にあった。 ※宗広および北畠顕家の再上洛は8/11、今度は息子の親朝は白河に留まった。 |
4/- | 越後の義貞与党が蜂起 ※足利軍と衝突 ※5月、8月にも蜂起がおこり、足利方が驚く |
師泰、北陸の件、頼むな。
向こうには親王もいるし、公家たちもいるから、調子乗られるとちょっと厄介だしね。
あ、どうも。高師直の兄弟の師泰です。
多分、僕の方が弟なんですけど、
師直とは、どっちが兄でどっちか弟か、諸説あるんですよねー。
いずれにしても、喧嘩の強い兄弟と言われてますー。
高、って名字は珍しいけど、正確には「高階」です。
はい、それはそうと、北陸行って参ります。
義貞には借りもあるし。
その間、上野の新田義貞の本拠地も攻めとくねー。
北陸をつたって、北畠顕家とつながると厄介だから、北陸も分断しとくねー。
ぬかりないでしょ?
師泰ごとき、1対1なら負けないのに、、
人数的に圧倒的不利だ、、、
しかも、長男の義顕までも失った、、、
でも、まだ諦めんぞ!
え、義貞、生きてるの?
しかも、まだ戦うのか?
大したものだなー。
ちょ、まわり敵だらけ!
斬っても斬ってもキリがないっ!