こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第1期③:1337年7-12月」です。
後醍醐天皇の催促を受けて、北畠顕家は上洛を目指します。
多難な道のりでしたが、鎌倉も攻略します。
この戦いには、中先代の乱以降潜んでいた北条時行も顕家軍に参加しました。
建武4年/延元2年(1337年)7-12月年表
7/4 | 下野小山城(栃木県小山市)で攻防戦 ※春日顕国、多田定綱ら南朝方が下野小山城(栃木県小山市)を攻撃するも、桃井貞直(北朝方)により撃退される。 |
7/8 | 関城(茨城県筑西市)で攻防戦 ※逆に桃井貞直が関城(茨城県筑西市)に逃げ込んだ春日顕国らを攻める。 ※なおも北朝方の佐竹義春が東条城、亀谷城(茨城県稲敷市)、笠間城(茨城県笠間市)を攻める。 |
8/11 | 北畠顕家、義良親王を奉じて霊山出撃 ※結城宗広、南部師行、伊達行朝らも参加。 |
10/ | 春日顕国、小田治久らと合流して、北朝方の佐竹氏らと戦う@常陸 ※常陸国はのちに北畠親房が漂着(?)する。 |
12/8 | 小山城の戦い、北畠顕家、足利軍(小山氏)に勝利 ※小山氏との戦いは3ヶ月に及んだ。 ※今回の進軍速度は前回の上洛と異なりゆっくりであったが、この勝利で進軍速度上昇。 |
12/13 | 利根川の戦い、北畠顕家、足利軍に勝利 |
12/16 | 武蔵国安保原の戦い、北畠顕家、足利軍に勝利 |
12/23 | 北畠顕家、鎌倉攻略 斯波家長、戦死(杉本城の戦い) ※斯波家長は房総へ逃げて態勢を立て直すことを進言したが、足利義詮は決戦を主張。結果、斯波家長は戦死し、足利義詮は三浦半島へ逃げる。 ※このとき、中先代の乱のあと、諸国に潜入していた北条時行および新田義貞の息子、新田義興も顕家軍に参加していた。 ※北畠顕家は、京都を目指す。新田義貞も上洛を促されるが、自分を裏切って足利尊氏と和睦した後醍醐天皇への恨みからか、連動せず。 ※避難した上杉憲顕、桃井直常、高重茂らは顕家の西進後に鎌倉奪回。そのまま顕家を追い西へ。 |
なんとか出陣の準備ができた、
これより上洛を目指す!
義良親王、出発しますよ!
へー。
さすが顕家くんだねー。
あの包囲網をかいくぐるとは。
1336年4月の片瀬川の戦いでは散々な目にあったけど、今度はそうはさせぬぞ!
鎌倉を通さん!
ひょい
え、え、え??
なんで北条時行がこの場にいる??
いったいどこに隠れておったんだー!!
しかも、僕だけじゃないのわかる?
新田義興くんも一緒だよ。
な、なぜ、北条と新田が行動を共にしている!
鎌倉幕府は新田義貞軍によって滅ぼされたのだぞ!!
しかも後醍醐天皇も敵ではないか!!!
それよりも憎いのはこの僕ってわけね。
まあ、たしかに鎌倉幕府、そして北条家を裏切ったのは僕だ。
家長、子供だからといって舐めたら痛い目に遭うぞ。
すでに家長は討ち取った!
尊氏、待っておれ!
時行くん、撹乱、ありがとう!
北畠と北条が組んだか、、
そこに新田も加わるとなると、、
ちょっと厄介だな、、
それより千寿王(義詮)が無事で良かった、、
尊氏さま、任せて下さい、って。
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