こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第1期:1339年」です。
吉野では後醍醐天皇が崩御。
義良親王が後村上天皇として即位しました。
一方、東国では高師冬が関東執事に就任し、南朝側へ圧力をかけます。
暦応2年/延元4年(1339年)年表
2/4 | 春日顕国(南朝方)、下野(栃木県)に入る ※春日顕国は北畠親房と同じ村上源氏の出自であり、親房とは同世代人と考えられる。親房のもとで働く大将的な存在であった。 ※暴風雨により一度は吉野まで戻ることになった春日顕国だが、その後、下野へ向かった。 ※南朝にとって下野は奥州と常陸をつなぐうえで重要と考えられた。 |
2/27 | 春日顕国(南朝方)、矢木岡城(栃木県真岡市)、益子城(益子町)攻略 ※さらに桃井氏の一族がいた上三川城(上三川町)、箕輪城(下野市)を崩壊させ、 飛山城、宇都宮城(宇都宮市)の軍勢も追い散らしたとのこと。 ※ただ、補給事情は苦しく、翌年には「馬がない」と窮状を訴えるほど。 |
4/ | 高師冬、関東執事職に就任 ※高師冬は師直・師泰の従兄弟にあたり、のちに養子となった。青野原合戦やその後の北畠顕家との戦いで頭角を表す。 ※従兄弟でもあり義父でもある師泰とともに京都を出て東国へ向かったが、師泰は遠江(静岡)にとどまり、現地の南朝方と戦うことになった。 ※しかし、関東執事職とはいえ、足利家の執事に過ぎない高家を佐竹氏、小山氏といった平安時代から続く名門は軽んじて、距離を置かれる。また師冬自身に与えられていた権限も大きくなかった(恩賞を与えられなかった)ため、軍勢を集めるのに苦労していた。 ※一方、その師冬就任により、一時は優勢であった南朝方は劣勢に。 ※北畠親房が白河結城親房に送っていた書状も、当初の「奥州の安定」から「常陸への参戦」と内容が変わり、それが出来ないと知ると非難へ変わった。 ※親朝は親房の軍資金援助などを精一杯行うが、領地から離れることは危険であったので動けなかった。 |
8/15 | 後醍醐天皇、後村上天皇(義良親王)に譲位 ※重病となっていた。 |
8/16 | 後醍醐天皇死去(52歳) ※後村上天皇は11歳とまだ若く、近衛経忠が南朝政権の中心となる。 ※近衛経忠は北朝との融和を目指し、藤氏長者の地位を利用して、小山氏(関東の藤原一族)らを中心として主戦派の北畠親房を追い出そうとした。 ※結局、彼の政略は成功せず、1341年、近衛経忠、南朝を出奔。京都に戻るも、北朝からも冷遇される。 |
10/5 | 尊氏、直義が奏請し、光厳上皇、後醍醐天皇を弔うべく天龍寺造営着手 ※夢窓疎石を開山とする。のちに天龍寺は五山第2位に列せられた。 ※【夢窓疎石】…臨済宗の僧。「天龍寺船」を元に派遣して、その儲けを造営資金にするなど、商才もあり。直義との対談記録「夢中問答集」(1344年)も残す。庭園づくりでも有名。 |
10/ | 高師冬、追討軍を編成して常陸国へ出陣 |
10/3 | 「常陸合戦」開始 ※以後5年に及ぶ ※山内経之という武蔵国の武士の家族への手紙によると、高師冬からの戦争出陣依頼に応じなければ所領を取られてしまうので、費用も馬鹿にならないが止むを得ず参加しているとのこと。ただし、厳しい戦況に置かれているとのこと。(高幡不動胎内文書) |
10/25 | 合戦本格化 ※決着はつかず、越年。 |
-/- | 脇屋義助の籠もる越前国平葺城(越前市)陥落 ※斯波高経は一時、脇屋義助の攻撃により加賀へと逃亡するが、盛り返し越前平定。 ※義助は美濃国根尾城へ。 |
今度、関東執事としてこちらに来る高師冬という男、
師直や師泰と同じく、手強いらしいですね!
そうじゃーーー!
親朝はどうしたーーー!
白河の結城親朝はどうしたーーーー!
・・・
みなさん、どうも。
4月より関東執事に任命されました高師冬です。
えっと、ただ、恩賞権限もなく、私自身の力もなく、割と大変なんですよねー。
でも、任命されたからには必ず東国にいる南朝方を征伐してみせます。
もうダメだ、、
私は死ぬ。
えー、死んじゃうのー??
もっと仲良くしたかったなーー。
兄さん、さっそく仏教の力を示すべく、
後醍醐天皇を弔いましょう。
後醍醐天皇の死を期に、北朝とも融和しましょう、、
徹底的に抗戦する、にきまってるじゃろー!