こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第1期⑬:1343年」です。
常陸・下総を中心に行われていた5年に及ぶ北朝と南朝の争いは北朝が優勢となり、
活動を行っていた北畠親房は西国へ帰ることとなりました。
天龍寺が完成したのもこの年です。
康永2年/興国4年(1343年)年表
4/2 | 春日顕国(南朝)、大宝城を出て相手攻撃方の下総結城直朝を討ち取る。 ※南朝方は士気高揚 |
6/23 | 高師冬(北朝)による攻勢強まる |
8/9 | 北畠親房(南朝)が頼りにしていた陸奥国白河(福島県白河市)の結城親朝が北朝方に降伏 ※所領安堵が条件であった。 ※親朝はすぐに幕府方として挙兵。 |
8/23 | 高師冬(北朝)による攻勢により、興良親王(南朝)、大宝城を出て小山朝郷の祇園城(栃木県小山市)へ移る |
11/11 | 関城・大宝城・伊佐城(南朝)陥落。 ※関宗祐親子・下妻政泰は戦死。 ※北畠親房は東国を去り、吉野へ帰還した。 ※春日顕国、脱出する |
11/- | 天龍寺竣工 ※初代住職には夢窓疎石(むそうそせき)。 ※京都五山第一位。 |
-/- | 「興国4年の戦い」(=尾野尻の戦い) ※豊後の大友氏(当時北朝)が、阿蘇氏の本拠に攻め込んだ。阿蘇氏はあらかじめ配備していた爆薬でこれを撃退。 ※当時、大友氏の当主は7代目大友氏泰。 ※のちのち、大友氏は北朝と南朝に分裂。 ※阿蘇家も足利尊氏の分離工作により分裂していた。 |
-/- | 阿蘇氏の内紛 ※南朝からの恩賞が少ないことを理由に阿蘇惟時(8代当主)が北朝に寝返り、矢部岩尾城に攻め込む。これを娘婿の阿蘇惟澄(10代当主)が迎え撃ち勝利する。 ※翌年も惟時が攻め込むが、惟澄が散々に打ち破る。 |
おおっ、春日殿が敵の大将を討ったか!
ふん、このままで済むと思うなよ。
親房さん、すいません。
これからは敵になりました。
な、なんと(涙)、、
あんなに手紙も書いたというのに、、
あぁ、この5年間は何だったんだ、、
これも結城家のためです。
あしからず。
もう西へ帰る、、
終わったな、、
私の勝ちだ。
西へ帰るけど、
まだ負けたわけじゃないわー!
このボケカスがっ!!
こっちはこっちでね、
天龍寺が完成したよ!
すごいでしょ^^
当時は今よりももっと広くて、
帷子ノ辻(かたびらのつじ)あたりまでを庭としていたんだ。
その距離、2km以上だよ。
渡月橋とか、嵐山、保津峡なども天龍寺の庭の一部という感じだったんだ。
In 1343, Kitabatake Chikafusa gave up the eastern part of Japan and returned to the west.
It was in this year that Tenryuji Temple was completed.