こんんちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第1期⑰:1348年1月」です。
「四條畷の戦い」で楠木正行を打ち破った高師直は吉野に攻め入り、後村上天皇らは賀名生に逃げ込みました。
貞和4年/正平3年(1348年)年表
1/2 | 高師泰(北朝方)、淀を出発、和泉国堺浦に布陣。 高師直(北朝方)は河内国四條畷に本陣を敷く。 ※楠木正行(南朝方)は高師泰は無視して、高師直と決着をつけることにした。 |
1/5 | 河内国四條畷の戦い。 楠木正行、高師直に敗死。 ※楠木正行は、中納言四条隆資率いる別働隊で師直軍の一部を牽制しつつ、精兵3000騎を率いて師直本陣を急襲。 ※四條畷は当時、低湿地帯であり大軍が迅速な動きはできなかった。そのため、師直本陣は大混乱となり、正行にもチャンスがあった。 ※実際、上山六郎左衛門が師直の身代わりとなって戦死するなど、高師直を追い詰めた。 ※しかし、圧倒的な兵力差を埋めることができず、正行は敗死。弟と刺し違える。 |
1/8 | 高師泰、石川城付近にある聖徳太子廟の太子像を破損し、砂金を奪った上うえに太子廟を焼き払う ※高師直・師泰兄弟の悪行として挙げられることが多く、1次資料からも確認できる。 ※しかし、逆に高師直・師泰兄弟の「悪行」は他の歴史上の悪人に比べて少なく、これまでのイメージを改める必要があるとも思われる。 ※領地内で軍事費捻出することは当時、誰しもがやっていたことでもある。 |
1/15 | 高師直、大和国平田荘まで進出し、南朝と講和交渉を行う ※後村上天皇は吉野の防衛を放棄して、奥地の賀名生(あのう)に退く決断をする。 |
1/26 | 高師直、大和国吉野まで進出。 無人の皇居含め、南朝施設すべてを焼き払う(~30日) |
1/28 | 吉野陥落 ※高師直、修験道場としても名高い吉野蔵王堂(金峯山寺)を焼く。 後村上天皇はすでに賀名生に移動。 ※ここまでを南北朝時代第1期とする。 |
2/13 | 師直、京都凱旋 ※一方、高師泰は河内国石川河原に進出して向城を設営。 ※その地は楠木氏の本拠である千早城・赤坂城へ向かう登山口にあたり、正行の住宅を焼き払うなど南朝残党の掃討戦を展開するなどぬかりない。 |
さてさて、いよいよ楠木の息子さんと戦いかな。
こちらの計略は、師直狙いだ!
ありゃー、なかなかやるじゃないの。
くらえっ、師直!
あー、それ、上山六郎左衛門っていう影武者ね。
でも影武者が討ち取られるくらいだから、正行くんも健闘したよね。
残念だけど、勝たせてもらうよ。
ぐぬぬ。無念…。
師泰、俺はこのまま南朝の本拠地、攻め込んでくるわ。
おう、こっちはこっちで楠木の残党対策をしとくわ。
楠木正行を失ったか…
高兄弟、恐るべし…。
ここは吉野を捨てて奥地へ逃げて、反撃のチャンスを待つしかない…
だいたい、俺たち「極悪人」のような書かれ方するけど、そんなに悪いことしてないよね。
うんうん、土地関係の裁判やってると、あっちを立てればこっちが立たずでね…
どうしても恨まれちゃうんだよねー。
「天皇なんか木で作って、本物は流しちまえ」なんて言ってねぇし…。
ははは。それ、有名なやつね。
ホント、名誉毀損だよ。
ま、師直、ホントに言ったと思ってたけど。
さぁ…。酒飲んで言ったかも知れないけど、覚えてないなぁ…。
師泰が太子廟破壊したのはホントだけどねw。
あれ、後世で割と問題になってるらしいよ。
えー!
もっと良い方をアピールして欲しいなー。
After defeating Kusunoki Masatsura in the “Battle of Shijonawate,” Kou Moronao attacked Yoshino, and Emperor Go-Murakami and others fled to Anou.
これにて南北朝時代第1期は終了となります。