こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第3期③:1370年」です。

この年、今川了俊が九州探題に任命されました。
また、後光厳天皇と崇光上皇の間で皇位継承者をめぐる争いが勃発。
後光厳天皇の長男、緒仁親王が皇太子となることが決定しましたが、
崇光上皇を支持していた土岐頼康は、これに強く反発して、かねてからそりの合わなかった細川頼之と決別します。
応安3年/正平25年→建徳(1370年)年表
3/16 | 長沢の戦い ※越中国長沢(富山県富山市)で斯波義将・富樫昌家ら(幕府軍)と、桃井直常(反幕府軍)が合戦 ※この戦いで桃井直常は息子の直和を失う ※その後、桃井直常は、南朝勢力や、飛騨の姉小路氏の支援を受けなおも抵抗を続ける |
3/ | 明からの使者が再び懐良親王を訪れる ※入貢を求める |
6/ | 今川了俊、九州探題に任命される ※細川頼之の推薦 ※大内氏ら中国地方の武将たちとの関係を強化しながら焦ることなく九州へ ※前任の渋川義行(足利義詮正室渋川幸子の甥)は長門国にも入れないまま九州探題解任 ※当時の征西府は四国の河野氏などの海上勢力も支配していたため、幕府方の勢力を寄せ付けなかった(1364年11月、細川頼之が伊予国守護として河野氏を攻めて河野通朝を死に追いやったことで、息子らは懐良親王の力を借りて挽回を誓った。) 【今川了俊】(1326-1420) 足利一門。観応の擾乱では尊氏派として戦う。wikipediaでは、「義詮死去に伴い出家」とあるが、政界を引退したわけではなく、細川頼之、土岐頼康らとともに幕政に参加して義満を支えていた。その後、九州探題に任命されて九州平定に注力する。和歌にも優れるほか、「難太平記」の作者としても知られる。 |
7/5 | 宇都宮氏綱死去 ※一時は薩埵山体制の一翼として鎌倉府を支えていたが、上杉憲顕の復権に伴いその地位を失い、さらに岩殿山の戦い、武蔵平一揆の乱で敗北 ※5月より山名氏清の指揮下で南朝と戦っていたが、病にかかり粉河寺(和歌山県紀の川市)に籠もり、陣没 ※45歳 |
7/24 | 南朝、建徳に改元 ※長慶天皇即位により |
8/ | 後光厳天皇、皇子である緒仁への譲位を望み細川頼之に相談 ※崇光(上皇)は拉致から帰京した後、弟の後光厳(天皇)と良好な関係を築いていたが、後光厳が自らの息子である緒仁への譲位を望むと、両者の関係は決裂した。 ※崇光上皇は自らの正当性を主張し、第一子、栄仁の即位を要求。 ※後光厳天皇は即位の事情(崇光天皇が南朝に拉致されたために即位した【コチラ】)から天皇としての正統性を疑われてもいた。 ※細川頼之は「聖断」で決めて欲しい、と。 |
9/ | 関東地方を暴風雨が襲う ※その影響により飢饉に |
10/ | 細川頼之、光厳天皇遺勅を用いて後光厳天皇に有利に ※後光厳天皇から相談を受けた細川頼之は後光厳天皇有利になるよう光厳天皇(※1364年没)の「遺勅」を持ち出す ※一方、諸大名は渋川幸子(足利義詮正室、足利義満後見人)と関係が深く、彼女が支援した崇光上皇を支援した ※そのため細川頼之は土岐頼康(崇光上皇派)と決定的な対立を招く |
11/ | 和田正武(南朝)、河内東条城の楠木正儀(北朝に寝返った)を再三攻撃 |
12/15 | 土岐頼康、美濃へ下国 ※土岐頼康は1368年から3年間、「重鎮」として幕府に出仕していた ※しかし、皇位継承問題をめぐって細川頼之と対立し、勝手に帰国 ※この問題の背景には、土岐頼康の愛人関係も絡んでいる ※細川頼之は土岐頼康を討伐しようとしたものの、諸大名が土岐頼康を支持したためできなかった ※ちなみに、1368年正月の時点における幕府の評定始のメンバーは細川頼之、吉良満貞、今川貞世、土岐頼康。山名時氏は義満の元服の儀には参加。それくらいの人数で政治が行われていた。 【土岐頼康】(1318-88)光厳上皇に失礼を働いて処刑された土岐頼遠は叔父にあたる。尊氏、義詮に付き添い、美濃、尾張、伊勢の守護職とまでになる。しかし、細川頼之とは対立することとなり、1370年に美濃へ無断帰国。もっとも1379年の康暦の政変で細川頼之を失脚に追い込んだ。 |
-/- | 足利義満、山門公人取締権を朝廷より与えられる ※山門公人…延暦寺およびその支配下の諸勢力及びその構成員 |

九州探題か…。これは困ったな…。しかしまあ私くらいしか適任者はおらんか…。

みんな私のことを本当の天皇だとは思っていないみたい…。だからこそ私は息子を天皇にしたい!頼之、なんとかしてくれ!

いやー、正直、天皇家のことは天皇家のことで決めて欲しいんですけどねー。でも、幕府は北朝を推すことで諸武将からも認められてるわけだしなー。

えーい、細川のやつはどうもすかん!わしゃ崇光さまこそ天皇と思ってるやよ。もう帰る!

ううう、土岐のやつめ、勝手なことしおって。討ちたいところだが、今はやめておこう…

へー、そうなんだ。

後光厳天皇が後継者争いで勝利した理由が今ひとつわからなかったので、「北朝の天皇」(石原比伊呂、2020年、中公新書)を読みました。肝心の後継者争いで勝利した理由はいまいち良くはわからなかったのですが、数多くの最新研究を引用しているほか、内容も面白く、室町時代前期を把握するうえで良書です!


まあ、強いて言うなら、今さら崇光上皇側に戻したらせっかく安定しかけていたのにまた混乱が生じる、ってところですかなー。

崇光天皇が連れ去られたことで私は後世まで叩かれ続けた…。もう連れ去られた事実も葬りたい、ってのも本音かなー。あ、もう僕の死後のことだけどね。
※今回よりサムネにchat GPTを使うことにしました。今まで自分で編集していたものよりクオリティが高く、時間も短縮!すごい時代に突入しましたね…。(さらに言うと、リライト:校正もAiがやってくれる…。)