こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第3期⑨:1376年」です。
山名家を継いでいた山名師義が急逝します。
まだ息子たちが幼かったこともあり、家督は弟の1人の時義が継ぐことになりましたが、
山名家はなんせ男子の数が豊富で、のちの内紛の遠因となりました。
永和2年/天授2年(1376年)年表
| 3/11 | 山名師義死去、49歳 ■山名時氏嫡男。5年前に家督相続。息子の義幸は病弱、他の息子はまだ幼かったため、師義の弟の時義が家督を継ぐ。このことが後の山名家の内紛につながった。 ■豊富すぎる山名時氏の主な男系 ★山名師義(長男)→息子(義幸・氏之・義熙・満幸) ★山名義理(次男)→息子(義清) ★山名氏冬(三男)→息子(氏家) ★山名氏清(四男)→息子(時清・満氏) ★山名時義(五男)→息子(時熙・時長)→(時熙の息子が山名宗全) ★山名義継(六男) ★山名時治(七男) ★山名義数(八男) ★山名高義(九男)→息子(熙高) |
| 4/- | 関東管領上杉能憲、病に落ちる ■上杉憲顕の後を継いで関東管領になったのは息子の能憲と、甥の朝房。しかし、朝房が早期に引退したことで能憲が1人で重責を担っていた。 ※ストレスが祟ったか、重病となるが、義堂周信との会話の中で19歳の頃を思い出す。観応の擾乱の際に高師直とその一族を摂津で討ち取ったのが上杉能憲だったのである。(当時、伯父の重能の養子となっており、重能が師直に殺害されたことへの報復である【コチラ:ただ高一族を殺害したのはやはり重能の息子・重季という説が強い?】) |
| -/- | 幕府、大内弘世の石見国守護を剥奪 ※九州での戦いを放棄して安芸国人毛利元春を再度攻撃(4月)。 ※事態を重く見た細川頼之は、大内の石見国守護を剥奪し、かねてより石見守護を熱望していた前守護・荒川詮頼に与えた。 (ただ、1379年に入り細川頼之が失脚したことで、石見守護は大内弘世の息子、父と袂を分かって九州で奮戦した大内義弘が就任することになる) |
| 5/- | 関東管領上杉能憲、病から快復 ★管領をやめたいと言って、辞職が許されたら病気が治った。しかし、そのため鎌倉公方足利氏満よりもう1度、管領に戻って欲しいと懇願される。 |
| 閏7/14 | 大内弘世、南朝に降参する企て?? ※石見国を取り上げられた恨みから大内弘世が南朝に帰順するという噂が流れたため、細川頼之は周防、長門守護の座はそのままであることを伝える |
| 8/ | 上杉能憲、管領復帰 ※その2年度、急病で命を落とす。 |
| / | 中山王、明より冊封を受ける ■足利義満が簡単に朝貢関係を結べなかったこととは裏腹に、南方の沖縄の王たちはスムーズに明との関係構築に成功。当時、沖縄は中山・山南・山北という3つの王朝が並んでいたが、まず中山王が冊封に成功 |

兄さんが死んじゃった。
しかし、長男の義幸どのは病気を理由に家督を継ぎたくないという。
一族をまとめるには私が適任か…。

え?その後は僕のところに戻るんだよね??

なんで時義やねん…

石見国取り上げだって??
また南朝に寝返っちゃおっかなー

管領ってストレスフルやわ…
もうやめたい…

お気持ちわかります…