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☞【南北朝時代第2期⑤:1349年10-12月】『義詮、三条殿に。九州では直冬旋風。』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第2期⑤:1349年10-12月」です。

直義は出家し、義詮が直義のポジションに就きました。

人事なども師直の思惑通りに進んでいるように見えますが、

すでに直冬は九州で驚異的なスピードで勢力を拡大しておりました。

貞和5年/正平4年(1349年)10-12月年表

10/3足利義詮、鎌倉を出立

※義詮と基氏は同母兄弟ながら鎌倉と京都別々に育てられた。しかし、このわずかな日数だけ顔を合わせる機会があった。このときの数日間が、のちの彼らの協力関係を生んだのではないかと考えられる。一方、その子孫たちはお互いに面識がなく、調整に円滑さを欠いている。
※義詮(兄)と基氏(弟)の年齢差は10歳。
10/11尊氏、肥後阿蘇維時に直冬の河尻津(熊本県熊本市)落下を伝え、直冬への対応を指示  

※尊氏は直冬へ上洛するように命令するが、身の危険を感じて聞く耳など持たない。
※それどころか、「尊氏・直義の御意」と称して無断で軍勢催促を行う。

【阿蘇惟時】多々良浜の戦い(1336年)で長男の惟直が自刃したため、大宮司職へ復帰。娘婿の惟澄らとともに宮方へ仕えていたが恩賞の少なさに不満を抱き、尊氏方に寝返る(1343年)。しかし、これを娘婿の惟澄が許さず両者が戦闘へ。惟澄が完勝。その後、惟時は帰順を明確にしていなかったが、1350年、惟澄に説得される形で南朝に帰順する。
10/22足利義詮(19)、入洛
10/25足利義詮、足利直義(42と面会

※高師直も付き添う。
10/26足利義詮、三条殿に移住、政務開始

※直義が持っていた役割をすべて吸収。
10/-大平義尚(高一族庶流)、備後国守護に

※高一族の勢力拡大
11/25足利義詮、諸大名を率いて石清水八幡宮参詣

※高師直も付き添う
12/6直冬が九州の軍勢を率いて師直・師泰を討つという噂が流れる

※直冬は師直の恩賞に不満を持っていた武士層を取り込んで、侮りがたい勢力となっていた。
12/8直義、出家

※夢窓疎石を受戒師として法名を恵源(えげん)、古山(こざん)とした。
※ただ、俗世間と縁を切ったわけではないことは、のちの勢力拡大の様子から考察できる。
12/18足利義詮、光厳上皇御所を訪問

※高師直ら数百人が付き添う
12/20上杉重能、畠山直宗、配流先の越前で殺害

※高師直、同国守護代八木光勝に命令して殺害させる。
12/27尊氏、薩摩国島津宗久らに直冬誅伐を司令

※陰謀があると伝えるが、命令は効果が薄かった。
※一方、直冬のターゲットは九州探題。
12/-上杉朝房、但馬守護に

※高師直による直義派の切り崩し工作か。
※しかし、7月には守護職を今川頼貞と交代しており、さらに擾乱では朝房は直義派として活動していることから工作は失敗。
足利義詮
君が弟の基氏くんか!

よく来たね!

これから僕は京都に行くけど、東国を宜しくね。

何かあったら兄弟、助け合おう!

足利基氏
うん、わかったー。

お兄ちゃん、

会えて嬉しいよー!

足利義詮
直義おじさんっ!

あとは私にお任せ下さい!

足利直義
(けっ!、この若造がっ)
足利義詮
え?何か言われましたか??
足利直義
え?何も。
足利義詮
なんか感じ悪いな…
足利直義
(このままで終わると思うなよ…。こちらには直冬ちゃんがいる…。)
高師直
尊氏さま、直冬は九州に向かいましたぞ!
足利尊氏
そっか。俺のもとに来るように言って。

ま、殺すつもりはないから^^

足利直冬
生みの親より育ての親、、

誰がお前のところになんか行くか。

足利尊氏
ふーん。おい島津、少々、手荒なことしても良いぞ。
足利直義
直冬ちゃん、頑張れよ。

九州にはまだ僕の縁が残ってるから味方を探すんだ。

これからどうするかって?

とりあえず出家するよ。

高師直
上杉重能、畠山直宗、お前らは流罪で済むと思うなよ。

消してやる。

足利直義
そっか…、2人は殺られたか…。

まあ、覚えてろよ、師直。

足利直冬
直義さま、既に我軍は京都に攻め込めるほどの勢力となりました。

とりあえずは九州探題を攻めます。
高師直
ちょっとまずいな。