こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期⑭:1287年」です。
モンゴルでは「東方三王家」と呼ばれる親戚筋から「ナヤンの反乱」が起こり、フビライ自ら鎮圧しました。
日本では霜月騒動の余波を受けて、天皇が大覚寺統から持明院統に交代しました。
伏見天皇(当時22歳)の誕生です。
後深草院が院政を行いました。
弘安10年(1287年)年表
1 | ナヤン・カダアンの乱(※1) ※モンゴル高原東部には、チンギス・ハーンの弟を始祖とする「東方三王家」が支配していた。 ※彼らはフビライ即位時の戦争に協力したのでフビライから優遇されていた。 ※しかし、チンギス・ハーンの末弟、オッチギンの玄孫、ナヤン(当時、約30歳)の代になるとフビライと関係悪化。 ※ナヤンはフビライに反旗を翻そうとするも、当時72歳のフビライが自ら兵を率いてナヤンのもとに乗り込みナヤンを捕縛。 ※ナヤンはすぐに処刑されたが、王家の1人、カダアンは朝鮮半島に逃げ込み、その後6年に渡り転戦を繰り返した。 |
10/21 | 伏見天皇即位(※2) ※「治天の君」は亀山から後深草に移った。 ※のち(1289年)、伏見天皇皇子が皇太子となり、持明院統が続く見通しとなった。 ※さらに、鎌倉将軍も後深草の皇子、久明(ひさあきら)に交替する見通しとなる。 ※亀山院の改革は挫折。幕府の後ろ盾なしには自立できない持明院統が優勢となる。 |
元、ビルマのパガン朝を滅亡させる |
(※1)ナヤン・カダアンの乱
フビライの爺さんも、もうそろそろ隠居しても良いんじゃないんか?
ハーンの座をこのナヤンに渡して。
息子さんたちも全員死んじゃったしね。
こりゃー!このクソガキがっ!
舐めたマネしおって!
やったるわい!
げげげ!
爺さん、まさかあんたが直接来るとは!
こりゃかなわんっ!
フビライ様、ナヤンは確保しましたが、カダアンは逃げましたーっ。
まあ、西方のカイドゥと連携させなかっただけ良しとするか。
カダアンの方は、テムル(孫)、お前に任せた。
(※2)伏見天皇即位
一言で言いますと、大覚寺統は安達泰盛と協調してたんですよ。
それで霜月騒動の余波を受けて、大覚寺統も交代させられちゃったんです。
1275年に皇太子になられていたが、いつ天皇になるかは定められていなかったわけだしな…
天皇家に対して幕府の干渉が強いのもしょうがないのか…
伏見天皇はご苦労なされた。
「伏見天皇暗殺未遂事件」もありましたしねー。
ですねー。それはそうと、伏見天皇は日本史史上、屈指の「書家」としても知られております。
試験に出やすいのは、三筆(空海、嵯峨天皇、橘逸勢)、三跡(小野道風、藤原佐理、藤原行成)なんですが、伏見天皇はそれ以上とも言われます。
そして、息子さんの尊円入道親王は古来の和風(世尊寺流:藤原行成祖)に宋の書風を取り入れて「青蓮院流(しょうれんいんりゅう)」という書道の一派を開きました。
後光厳天皇に習字の手本として書いた「鷹巣帖(たかのすじょう)」(1349年)が有名です。
その後、青蓮院流はどんどん発展。
室町幕府6代将軍足利義教も一門でした。
江戸時代になると幕府の公式文書に用いられます(御家流)。
伏見天皇もすごかったけど、その息子もすごかったというわけですな。
室町幕府6代将軍足利義教も一門でした。
江戸時代になると幕府の公式文書に用いられます(御家流)。
伏見天皇もすごかったけど、その息子もすごかったというわけですな。