こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第2期⑮:1351年8月」です。
尊氏が佐々木道誉を討ちに近江に、義詮が赤松満祐を討ちに播磨へ向かった隙に、直義は北陸へ逃亡します。
尊氏は直義に政務復帰を促しますが、そこに「桃井直常との絶縁」を条件としました。
直義はこれを断り、再び戦いの火蓋が切って落とされます。
佐々木道誉も赤松則祐もいつの間にか尊氏方となっておりました。
観応2年/正平6年(1351年)8月 年表
8/3 | 足利義詮、直義の出奔を知り、帰京。 |
8/5 | 足利尊氏、直義の出奔を知り、帰京。 ※同日、足利義詮は若狭国武士の本郷貞泰に対して同国に侵入した山名時氏、上野頼兼、赤松光範の討伐を命じている。 |
8/6 | 足利直義、この日までに越前国敦賀へ到着、金ヶ崎城へ入城。 ※15年前の新田義貞との行動パターンが一緒。【コチラ】 ※北陸は直義派が多かったこと、山名氏の「山陰ルート」を使って九州の直冬との合流も意図していたとも言われる。 ※尊氏、直義の和平は5ヶ月で破綻。観応の擾乱第2幕がスタート。 ※同日、尊氏は細川顕氏を使者として直義へ政務復帰を打診。 ※同時に南朝との講和交渉再開も表明。 ※尊氏の要望の1つが桃井直常と縁を切ること。直義はこれを拒否。 ※尊氏は関東で戦いが起こることを予見していた。 |
8/7 | 足利尊氏、恵鎮上人を使者として南朝との講和交渉を開始 ※直義と南朝の講和不調を引きずり、南朝は敵愾心をむき出しに。 |
8/8 | 九州で足利直冬と懐良親王(南朝)が肥後国白木原で初めての交戦 ※直義が北陸へ没落したことが伝えられると、それまで幕府の一員とされていた足利直冬と、九州探題・一色道猷、直氏親子との間で戦いが再開。 ※懐良親王が戦いに出てくることは初めて。北朝の分裂により、チャンスと考えたか。 ※懐良親王は1336年、後醍醐天皇の地方戦略の1つとして西国に下向。伊予国の忽那氏のもとで過ごして、1342年に薩摩国に上陸し、谷山氏のところによせていた。1348年に肥後国に入り、菊池武光の隈部城に入城。 |
8/10 | 足利尊氏、小笠原政長(信濃)に書状。 ※関東での戦を視野に入れていることの裏付け史料。 |
8/12 | 恵鎮上人、講和交渉に失敗して帰京 ※恵鎮上人は南朝には「側近であったくせに後醍醐天皇を裏切ったやつ」と認識されており、無残に追い返される。 |
8/16 | 足利尊氏、義詮を伴って近江国出陣。 ※当初は200騎あまりであったが、佐々木道誉が合流(寝返ってる)。 ※さらに仁木義長(伊勢)、土岐頼康(美濃)も合流。 ※播磨国の赤松則祐は放置されていたが、佐々木道誉とともに尊氏派に?? |
8/23 | 藤原有範、直義の使者として北朝を訪れ、比叡山への逃亡を勧める ※藤原有範は藤原南家の出身で儒学者の家系の公家。直義派として、禅宗・律宗関係の訴訟を扱う部署のトップを務めており、直義の北陸行きにも同行していた。 ※南朝が京都に攻め込む危険があるから比叡山に退却するよう説得するも、最終的に却下される。 ※光厳上皇にとっては、南朝へ降伏したり、その後の講和交渉で両統迭立論を持ち出すなどした直義は信用ならなかったのであろう。(※南朝も直義を信用していない。) |
直義がまた出奔しちゃったよー^^
父上!何を呑気なことを言っておられるのですか、、
直義おじさんと、東国の上杉、そして山陰の山名、九州の直冬が結託したら厄介ですぞ!
直義おじさんと、東国の上杉、そして山陰の山名、九州の直冬が結託したら厄介ですぞ!
いやー、キーマンは桃井じゃない?
顕氏、ちょっと直義に桃井と手を切るよう説得してきて。
私ですか、、
私ももうこれ以上の戦はもうしたくありませんし、行ってきます、、
裏切り者が何しに来やがった!
出ていけ!
顕氏、兄者に伝えてくれ。
直常と手を切るつもりはない。
直常と手を切るつもりはない。
そっかー、ま、想定内かな。
次の戦いは関東、かもね。
おや、私がまた貴方の元に戻ることも想定内ですか?
ハハハー。もちろんだよー。
尊氏は護良親王様の怨敵ではあるが、護良さまの殺害指示を出したのは直義なんだよな、、
それより、光厳上皇様、京都の守備が手薄です。
南朝が攻め込んでくる可能性がありますから、
比叡山に逃げられてはいかがですか?
余計なお世話だ!
お前の指図など受けない!
勝手に南朝に両統迭立を打診するやつの言うことなど誰が聞くか!!