こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第3期⑫:1379年」です。
この年は室町前期を語る上で1つのターニングポイントでもあると思います。
1つは「康暦の政変」。
諸大名と対立を招いた細川頼之が失脚しました。
これは足利義満にとっては完全な自立と、直轄軍の必要性を考える機会ともなりました。
2つ目は「右大将拝賀」。
廷臣として北朝も束ねる、という義満のグラウンドデザインは、右大将拝賀という豪華パレードによって世に知らしめることになります。
まだ20歳ですが、すでに公家たちは義満を恐れています。
3つ目は「康暦の強訴」。
史上初めて興福寺の強訴が失敗した時でもあります。
義満だからこそ、なせた技でしょう。
永和5年→康暦1年/天授5年(1379年)年表
| 1/6 | 土岐頼康、義満の命令で興福寺の応援へ ★前年夏より大和の国人・十市遠康から「悪行」を受けていると興福寺が足利義満に鎮圧を要請。土岐頼康が派兵される。 ★しかし、土岐頼康(61)は一向に戦う気配を見せず。 |
| 2/12 | 斯波義将、佐々木高秀ら畿内の有力武将も興福寺の応援へ派兵 ★斯波義将(29)を大将に増派。 ★細川軍は前年冬の南朝討伐失敗から遠征軍に加わらず。 |
| 2/20 | 合流した軍の中から細川頼之を退治しようという動きが出る ★土岐頼康(61)と細川頼之(50)との間には禍根があった。(→1370年) ★斯波義将(29)と細川頼之の間にも禍根があった。(→1377年6月) ★佐々木高秀(51)も跡目の判断をめぐって細川頼之との間に禍根をもつ。ちなみに佐々木高秀とは佐々木道誉の息子であり京極姓で表記されることも。 ★この噂はすぐ京都にも届く。 |
| 2/22 | 足利義満、土岐頼康討伐を諸将に命じる ★細川頼之は騒ぎを聞いて辞任を申し出たが、義満(20)は慰留。 ★細川頼之は留任の条件として「土岐頼康討伐」をあげ、義満はこれを諸将に命じた。 ★赤松義則(20)がその役目になるも戦闘にはならず ★斯波義将は家格を考慮して討伐とせずに京都に帰還するように要請したと考えられる。 |
| 2/24 | 斯波義将、帰京 ★斯波義将が突如、京都に現れる。 ★土岐頼康、佐々木高秀は挙兵。 |
| 2/27 | 佐々木高秀も討伐の対象に ★佐々木亀寿丸(六角満高:14)がその役目に ★3/7、高秀は亀寿丸の攻撃により没落 ♨赤松義則は中立的な立場で仲立ちとなったため土岐頼康と戦闘にはならなかったが、佐々木家は同族争いという側面もあったため戦闘となった |
| 3/7 | 関東管領上杉憲春自殺 ★義満は土岐頼康、佐々木高秀への対応に鎌倉府の足利氏満(19)に派兵を依頼 ★しかし、足利氏満は土岐頼康、佐々木高秀、または斯波義将とも通じており、これを機に将軍の座を奪い取るくらいの決意で京都に攻め込もうとする ★そのため関東管領上杉憲春は諫死。理由は諸説あるも、これによって氏満は京都侵攻を思い留める。 |
| 3/11 | 上杉憲方、土岐頼康討伐へ派兵される ★義満の命を受けて憲方は静岡県の三島に陣を張る。 ★上杉能憲死後、ともに弟にあたる憲方と憲春がその役割を継いだが、義満が憲方を推していたのに対して、氏満は憲春を重用して互いを牽制していた。 ★しかし、憲春は動乱となることを望んでいたわけではなかった。 ♨上杉憲春は氏満によって関東管領に就任したわけだから、氏満に従って反乱というシナリオも考えられたんじゃないか??とは思いますが。どうなんでしょう?? |
| 3/18 | 足利義満、土岐頼康を赦免 ★このままでは天下動乱になると、斯波義将は土岐頼康の赦免を義満に要求した? ★義満はしょうがなく赦免することに ★土岐頼康の討伐を推進していた細川頼之の立場悪化 |
| 3/22 | 康暦に改元 ★これから義満の時代になるという宣言 |
| 3/26 | 土岐頼康、上洛して謝罪すると連絡 ★しかし、佐々木高秀は討伐継続(4月中旬、二条良基のとりなしで撤回) |
| 4/15 | 上杉憲方、撤兵、関東管領就任 ★土岐頼康赦免による出兵の意義がなくなった上杉憲方は鎌倉へ撤兵となる ★同時に関東管領就任 ※兄・上杉能憲の死後、憲春と憲方に分散されていた役職、守護職などは憲方に集約 |
| 閏4/13 | 佐々木高秀が上京 ★義満のもとへ礼を言いに行くことが表向きの理由 |
| 閏4/14 | 康暦の政変 ★在京中の大名が数万騎で義満の家を包囲(御所巻) ★佐々木高秀、土岐直氏(土岐頼康弟:48)らが中心人物 ★細川頼之の罷免を要求 ★細川頼之、京都を脱走し四国に入る。 ★義満にとっては、諸大名が団結すると将軍といえども無力であることを思い知らされた。これはかつての足利直義の罷免を高師直が迫ったことと同じ構図。この力関係を変えるには諸大名の結束を弱めるしかないと悟った。 ※義満は、朝廷と幕府に二分化されていた京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかった。 ♨佐々木高秀と土岐頼康は同じような行動をとったにも関わらず、佐々木高秀の方が義満に嫌われている??佐々木高秀はその後、赦免されたものの守護職没収。 |
| 閏4/28 | 斯波義将、管領となる ★管領には斯波義将が就任したが、「康暦の政変」は細川頼之の保護から離れた足利義満の独り立ちという側面もある。 |
| 7/25 | 義満、右大将拝賀 ★「満城の鼓騒なり(京都全体が大騒ぎ)」。史上空前の拝賀となる。 ★公家たちは参加しないと「生涯を失う」とまで言われた。 ♨20歳ながら義満はキャラクターが完成されていた。義満の作法は本当に美しかったらしく、同じ熱心さを全廷臣に求めていた。 |
| 8/14 | 康暦の強訴 ★興福寺の強訴が史上初めて失敗。興福寺は十市遠康に横領された寺社領の回復を求め、藤原氏系の廷臣は放氏を恐れて出仕を控える中、足利義満は「自分は源氏である」と出仕を続ける。 ★12月になすすべなく強訴を取りやめ神木帰座。以後、洛中へ入ることはなくなった。 |
| 9/ | 長慶天皇、遷都 ★大和栄山寺(奈良県五条市:吉野より南西、和歌山県との県境)に移動。 ★宗良親王と和歌などを存分に楽しんだと思われる。 |
| -/- | 大内義弘、石見守護職へ ★九州遠征を放棄した父・大内弘世が1376年に取り上げられていたが、九州遠征で功をあげた息子・大内義弘が就任。 ★ただ、大内家は一枚岩ではなく翌年の内戦に発展。 |





俺も尊氏さまの孫だから将軍になる権利はあるんじゃねえか?
そもそも室町幕府って直義さんとその仲間が作ったもんよね。
鎌倉に幕府があった方がいいもんよね。

かくなるうえは死のう…

僕がうまくまとめましょうか?

お願いしよっか。土岐頼康討伐も解除してやるね。
しかし、氏満、てめえ、どうなっても知らんぞ。

義満坊っちゃんよー、細川頼之をやらねえと気が済まねえんだよっ!

いいよー(でも、覚えておけ)

四国に帰ります。
またいつかどこかで。

興福寺の強訴?俺は藤原氏じゃないから知らん。相手にせんでええ。
しかし、一段落ついたら今度はちょっと諸大名の力を削がねばな…。

強訴が効かないなんて初めてーーーー!!

失敗したら何されるかわからんーーー!!
※ベースとなったのは桃崎有一郎先生の著書「室町の覇者 足利義満」ですが、徹夜城さんのhttps://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/taiheiki/murotai38.htmlも参考にさせて頂きましたm(_ _)m。