【服部卓四郎】
★ノモンハン事件の責任者でありながら、太平洋戦争で辻とともに中枢に返り咲く。
★辻あっての服部なのだが、はっきり言って戦犯。GHQのもとで都合の良い「大東亜戦争全史」を編纂したことも問題。
【辻政信】
★ノモンハン事件を拡大させた。
★太平洋戦争においても数々の策略、数々の無謀な作戦を実施。
★戦後は潜伏生活ののち、衆議院議員へ。しかし、中国共産党に拉致され殺害された?
この2人が日本を太平洋戦争に導いたと言ってもいい(半藤氏)というほど、どの人の評価も手厳しい。巧みな弁舌があったにせよ、なぜ辻のような人物が軍の中枢にいて、誰も押さえつけられなかったのかというのは奇怪。(これには参謀養成所となった陸軍大学校の仕組みを理解せねばならない【コチラ】)
【服部卓四郎】
もはや味方なのか敵なのかわからん。最後、GHQのもとで「勝手な」歴史書を編纂。頭は良いのかも知れないが、頭の使い方を間違っている。ノモンハンの責任者。
【年表】服部卓四郎
1901 | 山形県にて出生。 |
1922 | 陸軍士官学校卒業(34期)。(※1) |
1930 | 陸大卒業(42期)。 |
1934 | フランス駐在。 |
1935 | エチオピア戦争観戦。 |
1939 | 関東軍作戦主任参謀としてノモンハン事件に従事。(※2) |
1941 | 参謀本部作戦班長を経て課長に。(※3) |
1942 | ガダルカナル島を視察、「補給路に問題なし」と虚偽の報告。(※4) |
1943 | 一時的に東条の秘書官になるが再度、作戦課長に復帰。(※5) |
1946 | GHQの指令で中国から独自に帰還。 |
1947 | GHQ歴史課配属。(※6) |
1960 | 死去。 |
(※1)同期には秩父宮雍仁親王や、西田税。
(※2)辻とともに積極拡大を訴えた。事件後は、軽い処分で澄み、1940年には参謀本部に栄転。翌年、作戦課長に。部長は田中新一。
(※3)のちにノモンハンを共に指揮した辻政信も呼び戻す。開戦時の陸軍の多くの作戦は田中ー服部ー辻。
(※4)おかげで戦死・餓死者2万5000人。
(※5)ノモンハン後もそうであるが、なぜまた復帰できたのか不明。
(※6)G2のウィロビーのもとで「大東亜戦争全史」編纂。現在では「自分に都合のいいことしか書かなかった」として問題視されている。
まとめ
★ノモンハン事件の責任者でありながら、太平洋戦争で辻とともに中枢に返り咲く。
★辻あっての服部なのだが、はっきり言って戦犯。GHQのもとで都合の良い「大東亜戦争全史」を編纂したことも問題。
【辻政信】
「行動力のあるバカ」ほどタチの悪いものはないと思う。もっとも辻に関して言えば、抜群の成績なので「試験」と言う横軸だけで見れば「バカ」ではないのだが。
日本を太平洋戦争に導いたとんでもない暴走男であるのだが、その人生は、なかなかすごい、常人ではマネできない。(もっとも、尊敬は全くできない。)
【年表】辻政信
1902 | 石川県加賀市、炭焼き屋の3男として出生。比較的裕福。 |
1924 | 陸軍士官学校を首席で卒業。(36期)(※1) |
1931 | 陸大を3位の成績で卒業。(43期)(※2) |
1934 | 陸軍士官学校事件。 生徒をスパイとして使い、皇道派を摘発。皇道派の村中と磯部はこれをでっちあげとして辻を訴える。(ちなみに辻の上司は東条。)(※3) |
1936 | 関東軍へ。石原莞爾に会い、終生、石原を崇拝することに。(※4) |
1939 | ノモンハン事件を拡大。東京の参謀本部の電報も握りつぶす。(※5) |
1941 | 参謀本部になぜか栄転。開戦後は作戦参謀としての任務を放棄し第一線で命令系統を無視して指揮をとり、山下奉之司令官を困らせる。(※6) |
1942 | シンガポール華僑粛清事件を首謀。 戦後の裁判で辻は逃亡中であったため、この時の虐殺に反対した河村、大石が処刑されることになった。 また、フィリピンの戦地にも戦争指導として赴く。 偽の大本営発表をして行軍中の米兵を射殺。このことで司令官の本間雅晴がのちに処刑されることに。 ポートモレスビー作戦は失敗。 ガダルカナル島では現地の川口指揮官と対立。立場を利用して川口指揮官の罷免をちらつかせる。実情を無視した攻撃を強行して失敗。 |
1943 | 陸大教官に異動。 なおも勝手に蒋介石と講和を結ぼうとしたり、ビルマ戦線でも無茶苦茶な指示を出したり。(※7) |
1945 | バンコクで終戦を迎える。国家百年のために潜伏したいと申し出て、中村司令官から許可を得る。僧侶に扮したり。 |
1946 | タイのラーマ8世の不審死は辻が原因という説も(!?)。 中国では国民党に匿われる。 |
1948 | 国共内戦の中国を避け、日本で潜伏生活。(※8) |
1950 | 戦犯指定から逃れる。逃走潜伏中の記録『潜行三千里』を発表して同年度のベストセラーとなる。 |
1952 | 衆議院議員に。 |
1961 | 視察先のラオスで行方不明に。58歳。(※9) |
1968 | 死亡扱いに。 |
(※1)中学へ進学しないで、高等小学校から幼年学校へ入学したというのは、戸部氏によると「コンプレックス」を抱くとのことで、どこへ行ってもスタンドプレーを好むのはこういった経歴が影響するのでは?とあるが、まあ、個人的な意見としては本人の「気質」では?と思う。
(※2)陸大の同期に秩父宮雍仁親王。
(※3)陸軍士官学校事件、真崎甚三郎更迭、相沢事件を経て、皇道派と統制派の対立は頂点に達し、二二六事件へとつながる。
(※4)一方、独断専横も見られ、数々のトラブルも。上下問わず「不良軍人狩り」を行う。
(※5)自決を強要された指揮官もいたし、捕虜から帰還した兵にも自決を強要。
停戦協定においては、ロシア側が署名をせずに帰国。これは会議が合意した場合、ソ連代表ボグダーノフ少将と外蒙古代表ヂャムサロンを殺害すると脅したことが原因だそうだ。
辻は「戦争は負けたと感じたものが、負けたのである」「外交もまた、負けたと思うものが、負けるのである」と述べる。
8400人の犠牲者を出したことは罪とは思っていない。
(※6)辻を要職につけてはいけないと主張する声も多かったが、なぜか中枢に。南進に当たっては「ノモンハンでソ連の実力は知っている。それより南の資源を押さえろ」と主張。
それでは英米と戦争になると危ぶむ同僚に対しては、「戦争と言うのは勝ち目があるからやる、ないからやらない、というものではない」と一喝。
マレーにおいて山下中将は、「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」と辻を厳しく批判。
(※7)辻の無茶な命令に背いて守備隊指揮官・水上源蔵少将は部隊に脱出を命じ、自分は部隊の渡河を見届けてから責任をとり自決した。
(※8)吉川英治も資金援助している。どこか人を惹きつける力があるのであろうか。反論できない「正論」の罠でもある。
(※9)様々な説が言われている。共産党が関与している説だとか。
まとめ
★ノモンハン事件を拡大させた。
★太平洋戦争においても数々の策略、数々の無謀な作戦を実施。
★戦後は潜伏生活ののち、衆議院議員へ。しかし、中国共産党に拉致され殺害された?
【追記】潜行三千里:完全版
2019年7月、「潜行三千里」の完全版が発売された。今まで72年間未公開であった「 我等は何故敗けたか」が追加されてというものが出された。内容はというと、これが結構またすごい。なぜ負けたかという分析もものすごく真実味がある。少なくともこの人が凡人ではないことは確かであろう。映画化されれば大ヒット間違いなし、と言われているが、本当に「映画よりも映画的」だ。
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【ノモンハン事件、日ソ中立条約については昭和史講義:コチラも】
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Masanobu Tsuji expanded the Nomonhan Incident. He also conducted numerous reckless operations in the Pacific War. After the war, he went into hiding and became a member of the House of Representatives. However, he may have been abducted and murdered by the Chinese Communist Party.