こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「1995年、豊臣秀次謀反事件」です。
豊臣秀次についてざっくり言いますと、
当初は子供に恵まれなかった秀吉の「後継者」となっていたのですが、
秀吉に子供(秀頼)ができたことで、邪魔になって殺された、という感じです。
そんなこんなで歴史に埋もれてしまった秀次さんですが、2021年10月9日(土曜日)~11月21日(日曜日)まで、刈谷市歴史博物館で企画展が組まれました。
歴史に「if」は禁物ですが、もし豊臣秀次が跡継ぎになっていれば、江戸幕府は成立したのか…と思わざるを得ないんですよね、、
以下、河合敦先生の「変と乱の日本史」(2017年)を参考にさせて頂きました。
1593年、豊臣秀頼誕生。これにより跡継ぎとされていた秀次に暗雲。
1595年、豊臣秀次自害。その子供たちも殺害される。これにより豊臣の血統は激減。
★時代は2度に渡る朝鮮出兵の間。秀吉は子だくさんの秀次に本家を乗っ取られることを恐れたのではないか?
姉の子を養子にする
★豊臣秀吉には長らく跡継ぎが生まれませんでした。弟の秀長も、妹の旭姫もです。一方、実姉は秀次・秀勝・秀保と3人の男児を産みました。
★1589年、秀吉と茶々の間に待望の息子、鶴松が誕生しました。しかし、3歳で死亡してしまいます。
(※茶々=淀殿。信長妹「お市」長女。秀吉との年の差は32歳!。)
★そこで、後継者として秀次を養子にしました。
秀次は「殺生関白」?
★秀次は17歳の時の小牧長久手の戦いでは大敗を喫して、秀吉に大目玉を喰らいます。しかし、その後は、小田原攻め、奥州鎮圧などに邁進し、24歳で関白就任します。
★ただ、異常なほどの好色で、関白就任時点で40人以上の側室がいました。子供も多く、跡継ぎには困らない様子です。
★また、毎日、刀の試し切りをしていたという噂があり、「殺生関白」とあだ名されていました。
1593年のできごと
★ターニングポイントは1593年です。この時、秀吉57歳でしたが、茶々が妊娠して、秀頼を出産しました。(ホントに血の繋がりがあったのかはいまだに不明、、)
★秀吉は、「天下を5つにわけて4つはお前にやる。しかし、お前の娘と秀頼を結婚させろ」と早速秀次に圧力をかけます。
★その後、秀次の弟2人が立て続けに死亡します。(秀勝は朝鮮で、秀保はケンカ。)秀勝は岐阜城主、秀保は大和と紀伊をおさめ、なお藤堂高虎を配下にして強い力をもっていただけに同胞を失った秀次にとっては痛手でした。
★これらにより、秀次は次第に追い詰められていきます。
1595年、切腹!
★そして、1595年、秀吉により「謀反の疑い」をかけられ、「高野山にのぼれ!」となり、秀次および彼の一派が一掃される事件がおきました。
★ちなみに秀次から借金していた細川忠興は家康からお金を借り、秀次と親密だった伊達政宗も巧みに弁明するなどして難を逃れました。(あやうく連座して殺されるところだったのですね、、怖っ。)
★そして、豊臣秀次は1595年7月15日、切腹させられます。(享年28)
★気の毒なのは秀次の遺児たちと近臣です。近臣たちは連座して切腹されたうえ、秀次の妻子ほとんどは葬られました。
秀吉は本当の敵を見誤った?
おそらく秀吉は、自分の死後、秀次家によって本家が乗っ取られることを恐れたのでしょう。
子だくさんの秀次と、幼い秀頼1人では分が悪すぎます。
(社会がよほど安定していないと幼帝は成立しませんが、まだ戦国の気風が残っている時代ですもんね…。)
ただ、秀次を「中継」として「秀次→秀頼」となったら、豊臣政権は実は安定していたのではないでしょうかね、、
秀次はこれから30代となるところで、ちょうど脂が乗りきって来る頃かと思いますし、、
しかし、まあ、朝鮮出兵の真っ最中にそんな政争をやっているなんて…。
写真はwikipediaより。「殺生関白」なんてうまいこと言いますが、それも切腹理由を増やすための後付けという説も。
書籍紹介
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