~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

1593年、豊臣秀頼誕生。これにより跡継ぎとされていた秀次に暗雲。

1595年、豊臣秀次自害。その子供たちも殺害。豊臣の血統は激減。

朝鮮出兵の間の事件本家を乗っ取られることを恐れた。

河合敦先生の『変と乱の日本史』を良本と思うのは、「小学生でも知っている重要事件」を扱っている一方で、「高校日本史選択者なら知っているけど、多くの一般人は見過ごしている重要事件」を扱っているところにあると思う。

その筆頭が、1595年の「豊臣秀次謀反事件」であろうか。

この時期、秀吉は、「本当の」敵を見失っていたと思う。

以下、読書メモ。

姉の子を養子にする

★豊臣秀吉には長らく跡継ぎが生まれなかった。弟の秀長も、妹の旭姫も子をなさなかった。一方、実姉は秀次・秀勝・秀保と3人の男児を産む。

★1589年、秀吉と茶々の間に待望の息子、鶴松が誕生する。しかし、3歳で死亡。

そのため、秀次を養子にすることにした。

ちなみに茶々とは淀殿のことで、信長妹お市の長女である。秀吉との年の差は32歳と親子ほど。

秀次は「殺生関白」?

★秀次は17歳の時の小牧長久手の戦いでは大敗を喫して、秀吉に大目玉を喰らっていたが、その後は、小田原攻め、奥州鎮圧などに邁進。

24歳で関白になるなどしていた。

ただ、問題は異常なほどの好色で、関白就任時点で40人以上の側室がいた。子供も多く、跡継ぎには困らない様子であった。

また、事実かどうかは不明にしろ、毎日、刀の試し切りをしていたという噂があり、「殺生関白」とあだ名されていた。

1593年、何が起きた?

★ところが歴史のターニングポイントは1593年。秀吉57歳の時である。まさかの茶々妊娠、秀頼出産。

以後、秀次は徐々に追い詰められていく。

「天下を5つにわけて4つはお前にやるが、お前の娘と秀頼を結婚させろ」などなど秀吉から圧力も。

♨しかし、秀吉、すごい執念だ。(ホントの子供かはわからないけど。)

★その後、秀次の弟2人が立て続けに死亡。秀勝は朝鮮で、もう秀保は小姓とケンカして死んだという説だ。秀勝は岐阜城主、秀保は大和と紀伊をおさめ藤堂高虎をも擁しており、ともに強い力をもっていただけに秀次にとっては痛手であった。

1595年、切腹!

★そして、1595年、秀吉の命により(謀反の疑いをかけられ?)「高野山にのぼれ!」となり、秀次を含め、秀次派が一掃される。

秀次から借金していた細川忠興は家康からお金を借りて難を逃れ、秀次と親密だった伊達政宗も巧みに弁明、などなど諸大名もあたふたしていた。豊臣秀次、1595年7月15日、切腹。(享年28)

★気の毒なのは秀次の遺児たちと近臣。近臣たちは連座して切腹されたうえ、秀次の妻子ほとんどは葬られた

★秀次が住んでいた聚楽第は更地に。

♨幼帝が立つというのは、よっぽど安定していない限り難しい。

秀次を「中継」として秀次→秀頼で良かったんじゃないか?

というのは大方の意見であろうが、秀次→秀次の息子になることを秀吉は恐れたのであろうか??

いずれにしても、本当の敵を見失たのだと思う。

朝鮮出兵の真っ最中にそんなことにやっているなんて…。

写真はwikipediaより。

書籍紹介

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