~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期⑨:1279-80年」です。

フビライは南宋を滅ぼし、再び日本征服を目指します。

一方、北条時宗は中国から無学祖元を招き、精神的支柱を得ます。

弘安2年(1279年)年表

1/28元が南宋を滅ぼす崖山の戦い

※追い詰められて陸秀夫が幼帝を抱いて入水自殺。(安徳天皇の死に類似。)
※元は豊かな穀倉地帯を手に入れて盤石の体制に。
6無学祖元、来日(※1)

※南宋出身。
※蘭渓道隆の死に伴い建長寺へ招かれる。
※時宗の精神的支柱となる。
7元の使者を太宰府で斬る

※周福・欒忠。
※この頃、朝廷は返書を送る議論はなされず。
※幕府が外交も把握していると考えられる。
※フビライは使者を待つ一方で、軍船も準備。
8/20無学祖元、建長寺住職となる

弘安3年(1280年)年表

元、「征東等処行中書省」を高麗に設置

※日本遠征を意図した組織。
この頃、阿仏尼「十六夜日記」が書かれる。(※2)
12/8時宗、鎮西諸国の守護に鎮西奉行の役所に詰めるよう指示

※来年4月に元の襲来が来るという情報を得ていた。

(※1)莫煩悩、驀直去!無学祖元、来日。

北条時頼は鎌倉に建長寺を建て、京都から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招いた。北条時宗は円覚寺を建て、宋から無学祖元(むがくそげん)を招いた。元から送られた一山一寧(いっさんいちねい)は、はじめは間諜ではと警戒されたが、のち北条貞時のあるい崇敬を受けた。

「詳説日本史研究」p165
教科書のこの記述はちょっとひっかかりますな。

蘭渓道隆は京都から来たとはいえ、もともと中国人。

そして、建長寺の住職を蘭渓道隆が任されていたのは良いんだけど、無学祖元が招かれた理由は、「蘭渓道隆が死んだから」。

無学祖元が来日したのが1279年で、円覚寺が建てられたのは弘安の役が終わった1282年なので、「円覚寺を建てて無学祖元が招かれた」のではなく、「建長寺の後継住職であった無学祖元が、円覚寺の住職となった」とするのが、よりわかりやすいのかと。

蘭渓道隆無学祖元一山一寧夢窓疎石
生年1213-12781226-12861247-13171275-1351
出身中国中国中国三重
来日年124612791299
主な庇護者北条時頼北条時宗北条貞時足利尊氏
主な勤務先建長寺
建仁寺
寿福寺
建長寺
円覚寺
円覚寺
南禅寺
南禅寺
円覚寺
天龍寺
備考宋風の本格的な臨済禅を伝えた。蒙古襲来時、時宗にアドバイス。精神的支柱となった。朱子学、五山文化隆盛の基礎を築く。臨済宗全盛期を築く。造園にも優れる。
渡来僧はまず建長寺に行くんだってね。

建長寺はまるで日本ではないような雰囲気だったみたい。

幕府が臨済宗を重んじたのに対して、朝廷は天台宗、真言宗を重んじたね
北条時宗
無学祖元先生は、「弘安の役」を1ヶ月前に予知しており、悩む私に対して、

「莫煩悩、驀直去」(まくぼんのう、まくじきこ=思い悩むなかれ、まっしぐらに行け)と教えて下さりました。

先生は南宋で元に襲われたときも気合の一喝で相手を去らせたほどの人なんです。

私もだいぶ精神的に頼りにさせて頂きました。

 

(※2)十六夜日記

これは、鎌倉幕府が西国の所領解決能力があったことを示す貴重な資料でもあるのですよねー。

 

平たく言うと、遺産相続で揉めて、実子のために阿仏尼さんが裁判しに鎌倉まで行った道中の紀行文です。

「十六夜」と書いて、「いざよい」と読むのですよ。
阿仏尼さん、当時60歳くらいで、京都から鎌倉まで歩けるのがすごい。
母は強し、ですね。
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