~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期⑦:1277-8年」です。

この頃、皇位をめぐって持明院統と大覚寺統の争いが激しくなります。

幕府の内諾がカギとなりました。

建治3年(1277年)年表

元とパガン朝(ビルマ)の戦争開始

※南宋征服後、さらなる領土拡大を目指す。
※現地の戦象舞台を破る。
※最終的に1288年、滅ぼす。
6/8臨安陥落が鎌倉に伝わる
11/5鎌倉幕府の奏請で後深草上皇(持明院統)皇子・煕仁親王が正式に皇太子となる。(※1)
両統迭立(りょうとうてつりつ)の前触れ。

※1275年11月に皇太子となっていた。
後嵯峨天皇(第88代)は、生前、2人の息子を皇位につけるべく長子の後深草天皇(第89代…持明院統)から弟の亀山天皇(第90代…大覚寺統)に無理やり譲位させた(1260年)。
※亀山天皇の皇太子には、亀山天皇皇子(のちの後宇多天皇:第91代)を指名(1268年)。
※しかし、後嵯峨法皇は後宇多天皇の即位(1274年)を待つことなく、1272年に崩御。そのため皇太子は空白であった。
※そこで、後深草上皇は幕府に働きかけることで後宇多天皇の皇太子に自分の息子(のちの伏見天皇:第92代)を就けることに成功(1275年)。
※以後、持明院統と大覚寺統が幕府の内諾を得つつ、交互に即位することが慣例となる。
※この慣例を打ち破ろうとしたのが、96代天皇の後醍醐天皇である。

(後嵯峨88⇒後深草89亀山90後宇多91伏見92後伏見93後二条94花園95後醍醐96

青=持明院統
緑=大覚寺統

建治4年/弘安元年(1278年)年表

2/29「弘安」に改元

※疾疫による。
7/24蘭渓道隆、死去

※北条時頼に請われて臨済宗を広める。
※建長寺を開山。
※一時は元のスパイであることも疑われていた。

(※1)両統迭立の前触れ

諸悪の根源は、後嵯峨天皇(第88代)が、息子の亀山天皇を溺愛するあまり、その兄・後深草天皇をないがしろにしたことです。

ちょっとわかりにくいので、皇族関係の年齢に照準をあてて、年表を整理したいと思います。

できごと後嵯峨後深草亀山後宇多伏見後伏見後二条
1242後嵯峨天皇即位23歳
1243後深草天皇誕生(父=後宇多)24歳1歳
1246後深草天皇即位(→持明院)27歳4歳
1249亀山天皇誕生(父=後嵯峨)30歳7歳1歳
1258亀山天皇、皇太子に39歳16歳10歳
1259亀山天皇即位(持明院→大覚寺)40歳17歳11歳
1265伏見天皇誕生(父=後深草)46歳23歳17歳1歳
1267後宇多天皇誕生(父=亀山)48歳25歳19歳1歳3歳
1268後宇多天皇、皇太子に49歳26歳20歳2歳4歳
1272後嵯峨法皇崩御53歳30歳24歳6歳8歳
1274後宇多天皇即位(大覚寺→大覚寺)32歳26歳8歳10歳
1275伏見天皇、皇太子に33歳27歳9歳11歳
1285後二条天皇誕生(父=後宇多)43歳37歳19歳21歳1歳
1287伏見天皇即位(大覚寺→持明院)45歳39歳21歳23歳3歳
1288後伏見天皇誕生(父=伏見)46歳40歳22歳24歳1歳4歳
1289後伏見天皇、皇太子に47歳41歳23歳25歳2歳5歳
1298後伏見天皇即位(持明院→持明院)
後二条天皇、皇太子に
56歳50歳32歳34歳3歳6歳
1301後二条天皇即位(持明院→大覚寺)59歳53歳35歳37歳6歳9歳
1304後深草上皇崩御62歳56歳38歳40歳9歳12歳
1305亀山上皇崩御57歳39歳41歳10歳13歳
そもそも天皇に即位する年齢が若すぎる!

23歳、4歳、11歳、8歳、23歳、3歳、9歳って…

後深草天皇に至っては、4歳で即位して17歳で退位。

ちょうどこれからって時に…。そりゃ不満が残るわ。

後伏見天皇に至っては、3歳で即位して6歳で退位。

ものごころすら、ついていないんじゃないかな。

のちに後醍醐天皇が討幕を決意したのは、自分の血統に皇位を継がせたかったこと、そのためには幕府が邪魔だったことが指摘されております。
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