こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期⑬:1285-6年」です。
得宗家の家臣(御内人)の筆頭(内管領)である平頼綱が、有力御家人である安達泰盛を急襲しました。
これにより安達泰盛一族および安達派がほぼ壊滅します。
平頼綱は以後、強大な権力のもと、恐怖で御家人たちを支配する「恐怖政治」を行います。
弘安8年(1285年)年表
4/18 | 平頼綱、相模守就任 ※執権・貞時による。 |
10 | 元、第3次征東行相省設置 |
11/17 | 霜月騒動(@鎌倉)(※1) ※安達泰盛(御家人)と平頼綱(得宗家御内人)の戦い。 ※平頼綱の先制襲撃により安達泰盛、敗死。 ※その後、各地の有力御家人が討伐される。 ※北条氏と有力御家人の最後の争いとなった。 |
11/ | 岩門合戦(@北九州) ※霜月騒動の余波が九州にも波及。 ※平頼綱方の少弐経資(兄)が安達泰盛方の少弐景資(弟)を破る。 ※安達泰盛の息子、盛宗敗死。 ※少弐家は弱体化。北条氏の九州支配が強化された。 ※肥前守護・北条時定(北条時頼の弟=得宗家一門:?-1290、阿蘇家の祖)の指示があったのではないか? |
12 | 元、第2次ベトナム遠征の失敗により日本侵攻計画中断 ※→元、第3次征東行省廃止。 |
弘安9年(1286年)年表
7 | 鎮西談議所の設置 ※幕府、九州の御家人の越訴を禁止 ※少弐・大友・宇都宮・渋谷四氏による合議議決にする。 |
9/3 | 無学祖元、没 |
10 | 元寇への恩賞配分が行われる ※~1290年。 |
(※1)霜月騒動
時宗の執権時、幕府には彼のほかに2人の実力者がいた。有力御家人の安達泰盛(1231-1285)と、御内人首座(内管領という)の平頼綱(?-1293)である。
「詳説日本史研究」p155-156
この2人は元寇以前から立場的に対立していました。
さすがに元寇が来ることがわかってからは時宗の手前もあり争いを控えていたんだけど、
時宗死去でタガが外れちゃいましたねー。
御家人というのは将軍直参の家来。
一方、御内人というのは北条得宗家の家臣。
もともとは北条氏も御家人なんだけどね。
調停役をつとめていた時宗が1284年に33歳の若さで死去すると、対立はにわかに激化し、翌1285年11月、頼綱は兵を集めて泰盛一族を滅ぼした。
「詳説日本史研究」p156
安達泰盛のみならず、彼に賛同する御家人たちも滅ぼされた。
これで北条氏に対抗しうる有力御家人は消滅。
執権・貞時どのはまだ14歳。
実質、頼綱どのは権力の頂点に立つわけじゃ。
まあ、その後どうなるかはお楽しみじゃ。
(貞時の時代)御家人の代表者が政治に関与する機会はますます減少し、得宗と得宗を支える一門・御内人による得宗専制政治が確立したのである。
「詳説日本史研究」p156
頼綱どのの評判はとにかく悪い。
強固な監視による恐怖政治を行ったのだ。
元寇は新たな領地獲得がないから恩賞がない。
しかし、霜月騒動で滅ぼした家から土地を巻き上げれば分け前が与えられる、というわけですな。
あとは罪人とか、戦死者とかの土地ね。
元寇で先頭にたって戦った少弐家もこのとき、分裂して争ってしまったよ。
そのせいで少弐家は弱体化。
これには肥前守護だった北条一門の時定どのの関与が疑わしい。
時定どのは元寇に備えて九州に送られた北条氏一門ですな。
我々は決して3度目を諦めていたわけではないぞ。
このドサクサに攻め込んでいれば今度こそ日本を壊滅できたかもなぁ。
しかしまあ、こっちもこっちで内乱があって大変なんですよ。