こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期⑮:1288-90年」です。
日本は3度目の襲来に備えておりましたが、
元は、ベトナム遠征の失敗、いまだに続く内乱などで、
それどころではありませんでした。
弘安11年/正応元年(1288年)年表
3 | 白藤江の戦い ※元がベトナム(陳朝)に敗北し撤退 |
4/28 | 正応(しょうおう)に改元 ※伏見天皇即位のため |
正応2年(1289年)年表
8/23 | 一遍上人、死去 ※満50歳。 ※死因は過酷な遊行による過労、栄養失調と考えられている。 ※時宗が正式に宗教と認められたのは江戸時代になってからである。 https://www.youtube.com/watch?v=J683rAaan_A |
9/14 | 第7代征夷大将軍・惟康親王、征夷大将軍を辞し京都へ送還 ※26歳となっており、その権力を執権・北条貞時が恐れた。 ※将軍は得宗家の傀儡であり、将軍が成人→将軍交代が続く。 ※第8代将軍には後深草上皇(持明院統)の息子、久明親王が13歳で就任。 ※幕府は亀山上皇(大覚寺統)を警戒していたため久明親王が就任したという説も。 |
10/9 | 久明親王、第8代征夷大将軍宣下 ※父親は後深草上皇(持明院統)。 ※後深草上皇と第6代将軍の宗尊親王は兄弟であり、久明親王と第7代将軍の惟康親王は従兄弟にあたる。 |
– | フビライ、カイドゥの乱に親征 ※カラコルムを狙っていたカイドゥ(もともとは親族)は退却 |
正応3年(1290年)年表
3/9 | 浅原事件 ※伏見天皇暗殺未遂事件。 ※霜月騒動で所領を奪われた浅原為頼とその息子たちによる。 ※伏見天皇の寝室を聞かれた女中が機転を利かせて別の場所を教示。 ※その隙に伏見天皇が脱走。 |
(※1)浅原事件
警固の武士に気づかれたか…。
もはや、ここまで。自害する…。
天皇の寝室を聞かれて別の場所を示した女中の機転が利きましたね。
事件の背後に大覚寺統系の貴族、三条実盛の関与が疑われました。
結局、真相は闇の中ですが。
浅原為頼が自害する時に使った刀が、三条家の刀だったので、そりゃ疑うだろう…。
しかし、後深草院はこの件を不問にしたのだ。
争いが明るみに出ることを避けたのかな。
この時期は幕府の後ろ盾もあって、だいぶ持明院統が有利ですね。