こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期⑯:1291-2年」です。
6年に渡る「カダアンの乱」はフビライの孫、テムルによって鎮圧されました。
これにてテムルがフビライの後継者とみなされます。
一方、日本では3度目の来襲に備えて、「異国打手大将軍」が北条氏一門より任命されました。
のちに「鎮西探題」となります。
正応4年(1291年)年表
– | 元、台湾遠征(-1292) ※失敗に終わる。 |
正応5年(1292年)年表
– | カダアンの乱、終結 ※高麗に侵入して、人肉を食すなどの有様だった。 ※フビライ孫のテムルが鎮圧。 ※この戦功により、テムルがフビライの後継者に。 |
– | 元、ジャワ島遠征 ※大艦隊を率いてジャワ島へ ※当時の「シンガサリ朝」は倒れ、元と結んだ「マジャパヒト朝」へ王朝交替。 ※マジャパヒト王国は巧みな交渉で元軍を撤退させる。 |
7 | 燕公楠(元)、書状を日本の商船に託す ※5月、日本の商船が高麗に立ち寄った。 ※元の重臣、燕公楠がこの商船に書状を託す。 ※商人2人は捕らえられ、10月に護送される。 ※日本は書状を黙殺。 |
10/3 | 幕府、将軍の護持僧・親玄に異国降伏の祈祷依頼 ※書状を受けて日本は再び元の来襲を意識。 ※5日には、諸国の主要寺社にも異国降伏の祈祷を命じる。 |
10/ | 高麗より金有成・郭麟が日本へ ※フビライの指令。 ※捕えた日本人商人の護送とともに、日本に服属を迫る。 ※幕府、後深草院は返牒不可論。 |
11/24 | 「異国打手大将軍」が決定(※1) ※元と戦うために九州へ派遣される武将が寄合(得宗家での秘密会議)で決定した。 ※任命されたのは、 ・北条兼時(8代執権北条時宗の甥) ・名越(=北条)時家(二月騒動で処刑された名越時章の孫、名越家嫡流・名越公時の息子) (→「異国打手大将軍」が、のちの「鎮西探題」に発展。) |
(※1)鎮西探題
…いつ3回目の攻撃が実行されるか、まったく予測できなかった。(中略)…すでに機能しなくなっていた鎮西奉行にかわり、鎮西探題を博多において、北条氏一門をこれに任じた。
「詳説日本史研究」p155
とはいえ、どの時点を鎮西探題の始まりとするかはまだ一定の見解を得ておりません。
兼時、時家が派遣された段階では裁判権はまだありませんでした。
鎮西探題は六波羅探題に準じたもので、九州の御家人の統括と訴訟の裁許を管掌した。九州の政治的中心はこれを機に大宰府から博多に移行した。
「詳説日本史研究」p155
裁判権を得たのは次の金沢(=北条)実政の時ですね(在位1296年~)。
北条時宗を支えた金沢実時の息子です。
諸国の守護も北条氏一門が多く就任しましたね。
「将軍ー御家人」という主従関係はもはやなく、将軍はお飾り。
ちょっとわかりにくいですけど、
「名越(なごえ)」、
「極楽寺(ごくらくじ)」、
「金沢(かねざわ)」、
「大仏(おさらぎ)」
という名字の人は北条氏一門だよ。
「名越家」…北条朝時(泰時の弟)が、名越(鎌倉市南東部)にある北条時政の私邸を継承したことから。
「極楽寺」…北条重時(泰時の弟)が引退・出家後、極楽寺(鎌倉市)に住んでいたことから。
「金沢」…北条実泰(泰時の弟)が始祖。横浜市金沢区で地頭をしていたことが由来。「金沢文庫」の創始者であるとともに、北条時宗を支えた2代目の北条実時が有名。北条政村(泰時の弟)の娘を妻とし、姻戚関係を結ぶ。
「大仏」…北条朝直(泰時の従兄弟)が始祖。泰時の娘を妻とするなど一門の中でも重要なポジションを得る。
他に家格が高い一門として、「赤橋」があるけど、これは「極楽寺」北条重時の息子、第6代執権・北条長時の家系。
みんな北条で良いんじゃないか?
ここまで覚える必要はないけど。