こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期㉜:1331年」です。
この年、吉田定房の密告により再び後醍醐天皇の倒幕計画が幕府の知るところとなりました。
幕府が後醍醐天皇を捕らえて遠国に配流するという情報をキャッチした天皇方は、南方へ逃れます。
そして、笠置城に籠城して、幕府軍と対決します。
このとき、後醍醐天皇に呼応する形で、楠木正成も挙兵しました。
1ヶ月に及ぶ攻防の末、笠置城は陥落。
後醍醐天皇は捕らえられました。

元徳3年/元弘元年(1331年)年表
4/29 | 後醍醐天皇の倒幕運動が再び密告される。 ※密告したのは側近中の側近、吉田定房。 ※後醍醐天皇の身を案じ、首謀者は日野俊基であると幕府に告げる。 ※後醍醐天皇が隠岐に流されるまでが「元弘の変」、その後の幕府崩壊までの戦いを「元弘の乱」という。 |
5/5 | 長崎高貞(高資の兄弟)らが上洛、日野俊基らを捕縛 ※鎌倉幕府の動きは迅速だった。 ※ほか後醍醐天皇の密教の師匠にあたる、真言律宗の僧・文観(もんかん)や、天台宗の僧である円観(えんかん)らも捕縛。 ※幕府は後醍醐天皇と護良親王を遠国へ配流する予定であった。護良親王は自分が暗殺されるという情報をキャッチし、後醍醐天皇とともに8月の挙兵につながる。(※1) |
8/6 | 北条高時の「長崎高資暗殺計画」発覚 ※長崎高資の専横を憎んだ高時は、高資のおじ・長崎高頼に高資を討たせようと画策するも発覚。 ※高時は関与を否定し、高頼は流罪となる。 |
8/9 | 後醍醐天皇が「元弘」に改元 ※幕府は書類不備などを理由に、この改元を「無効」として元徳を使い続けた。 |
8/24 | 後醍醐天皇、挙兵。京都を出る。 ※花山院師賢、勅命により天皇の影武者となって比叡山へ向かう。六波羅軍が比叡山に向かう間に、後醍醐は三種の神器を持って南方へ向かう。 ※本来は奈良(吉野?)まで行く計画であった。 |
8/27 | 後醍醐天皇、笠置城(京都府笠置町)に籠城。 ※幕府は大軍を差し向ける。 ※4人いた大将軍のうち3人は北条氏であり、もう1人は足利高氏。(足利家の家格の高さを示すエピソードの1つでもある。) ※目標としていた奈良まで進むことができなかった。 |
9/1 | 六波羅軍、臨戦態勢完了。 ※今回の行動は迅速であった。 |
9/6 | 六波羅軍、総攻撃開始。 ※後醍醐天皇は各地に檄をとばしたが、頼みの比叡山、興福寺は動かず、名だたる御家人も決起しなかった。 |
9/- | 楠木正成、下赤坂城(河内赤坂城)で挙兵。 ※そんな中で決起したのが楠木正成(河内)と桜山四郎(備後:広島県福山市)。ただし、準備が不十分であったことは否めず。それでも奮戦した。 |
9/13 | 桜山四郎、備後南部を制圧 ※幕府軍が畿内に集中すしたため手薄だった。 |
9/20 | 光厳天皇、践祚 ※幕府は皇太子、量仁親王を天皇とする(=光厳天皇)。 ※皇太子には大覚寺統から邦良親王の子、康仁親王が就任。両統迭立は守られる。 |
9/28 | 笠置城、落城 ※後醍醐天皇は捕らえられる。 ※護良親王は捕らえられず、楠木正成に合流。 ※桜山四郎の配下は四散。 |
10/21 | 下赤坂城、落城 ※笠置城を落とした幕府軍も加わり落城。 ※楠木正成は捕らえられず。護良親王も捕らえられず。 |
(※1)最新の研究結果から見る後醍醐天皇の挙兵

私の計画では、後醍醐天皇が捕まる前に、興福寺へ逃れ、また影武者を比叡山に派遣して、山僧の軍事力で六波羅軍をおさえることです。
さらに、この間に伊賀・伊勢・大和・河内の兵をもって京都を制圧するのです。
もちろん、「つて」があるから言ってるんですよ。

私、「悪党の代表」とか言われてますけど、元々は鎌倉幕府得宗家の被官だった、という説が有力なんですよ。静岡市清水区に「楠」って地名があるでしょ?
そんでもって、畿内へは得宗家の領土の管理のために派遣されたんですよ。
まあ、何と言われようと、畿内にネットワークを持っているのが強みであります。

捕まるのが嫌で笠置城に籠城しましたけど、結局捕まってしまいましたー。
でも、本当は奈良まで行く予定だったんですよ。

後醍醐天皇はひっ捕らえたけど、護良親王は取り逃がした。
2人は全国指名手配じゃ!
護良親王を捕えたものには近江国麻生庄を与えるぞ!
それと、後醍醐天皇は皇位剥奪、遠国流罪!

やれやれ、私は死んだフリをして城を脱出しました。
1年ほど姿をくらますことにします。

楠木正成、なかなか面白い戦い方をするな。
でも、私の敵ではないかな。
ま、オヤジの喪中に出陣の催促した幕府にはちょっとイラっときてるんだけどね。

この2年後に鎌倉幕府が滅びることを誰が予見できたであろうか、、