こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第1期⑥:1338年5-6月」です。
石津川の北に高師直、南に北畠顕家が陣取り、「石津の戦い」が始まりました。
この戦で長期間に渡り南朝の主力として戦ってきた北畠顕家が戦死します。
死の1週間前、後醍醐天皇に決死の上奏文を書いていたことも知られております。
建武5年/延元3年(1338年)5-6月年表
5/15 | 北畠顕家、後醍醐天皇に怒りの上奏文(北畠顕家上奏文) 全7箇条からなる。 ※①中央集権をやめて地方に軍事指揮官を派遣して任せるべき(地方分権) ※②租税は3年は減免(戦乱で疲弊しているため内裏の修理をしている場合ではない) ※③官位と恩賞を分けて、能力あるものに官位、そうでないものに土地を与える ※④公卿・殿上人・僧侶への恩賞をしっかり定める ※⑤行幸や宴会を控えてくれ(節制!) ※⑥朝令暮改をやめて法を厳しく遵守すべき(綸旨万能主義を批判) ※⑦みだりに官位を与えない(特に公家・僧侶・女官) ※これらを改めず、平和を築くことができなければ、職をやめて山に籠もる、とまで宣言。 |
5/16 | 高師直、天王寺から堺浦に入り、石津川北岸(大阪府堺市)で顕家軍を待ち構える ※観音寺城を拠点としていた顕家軍は、制海権を得ようと堺浦南岸へ向かう。 ※両者とも制海権が重要と考えていた。 |
5/22 | 北畠顕家(21)、高師直と和泉国堺、石津の戦いで敗死 ※石津川を挟んで両軍が激突。 ※船が6艘焼けて沈んだという記述もあることから、海上でも戦いがあったよう ※奥州から付き従っていた南部師行も戦死 ※大阪市阿倍野区の北畠公園に顕家の墓がある ※北条時行、伊達行朝は生き延びた。 ※新田義興も生き延びてのちに南朝の主力となる。 |
ぜいぜい、はぁはぁ、、、
京都奪回はまだか?
むかーーーーっ!!
大体、天皇の行いが悪いんですよっ!!
税金とりすぎ、使いすぎ、
官位もむちゃくちゃ、法もむちゃくちゃ、
もう地方は地方に任せて欲しかった、
せっかく奥州の統治も進んでいたのに、
あんたがしっかりしないから無茶苦茶やん!
今後も考えを改めないなら、私はもう山に籠もります!!
おいっ、顕家、どうしたっ、、、
相当追い詰められているな、、、
うーん、、、
わしだって最初は地方分権を目指していたんだけど、
それよりも戦局が思わしくなくて、お主を2度も呼び寄せてしまった、、
しかし、そんなにワシの政治は悪かったのかな、、
内裏の修理も天皇の威厳を示さないとと思ったことだし、、
もういいですっ!
次の戦いで私は死ぬかも知れません。
その前に言っておきたかっただけですから。
顕家、、、
公家という出自でありながら民衆目線なところが顕家の人気の理由ですねー。
さて、「石津の戦い」といきますかっ!
どっちが制海権を得るかが大事ですね、
しかし、多勢に無勢かな、、
時行くんは逃げてくれっ!
ううっ、、無念、、
敵ながらあっぱれだよ、顕家どの。
しかし、時行は取り逃したか、、、
顕家を失くしてしまったか、、無念。
これから南朝はどうすべきか、、
やっぱり親王たちを各地に送って地方を充実させていくか、、
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