こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第2期⑩:1351年1月」です。
桃井直常の「京都接近」の報を受けて、足利義詮は京都を脱出します。
しかし、ちょうどその時、尊氏軍も京都付近まで来ていました。
義詮は尊氏軍と合流して「反転」して京都に向かい、「京都市街戦(第3次京都合戦)」になだれ込みます。
ただ、尊氏軍が勝利したものの、なぜか直義軍が増えるという事態が発生し、
尊氏たちは戦闘で勝ったにも関わらず丹波への撤退を余儀なくされます。
こうして京都は直義派が席巻しました。
観応2年/正平6年(1351年)1月 年表
1/1 | 畠山国清(直義派)、摂津国神崎まで進出、同国守護代・河江円道を駆逐 ※当時の摂津守護は赤松範資で尊氏-師直派であった。 |
1/2 | 信濃国で諏訪直頼が諏訪郡湯河宿で「直義派」として挙兵 【諏訪直頼】…16年前の中先代の乱で北条時行を奉じて当時、鎌倉将軍府の執権であった直義と戦った諏訪氏の一族である。 ♨かつて一族が敵対した直義と手を組むのは興味深い。 |
1/3 | 桃井直常(直義派)、近江国坂本まで接近 |
1/4 | 尊氏、比叡山延暦寺を勧誘 ※土地を条件にするも効果はなく、むしろかなりの僧兵が直常軍に加わった。 ♨比叡山がなびかなかったのは寺社勢力と敵対した高師直の影響もあったか? |
1/5 | 諏訪直頼(直義派)、同国守護小笠原政長の船山郷内の守護所に放火 |
1/6 | 尊氏-師直軍、摂津国西宮まで到達 |
1/7 | 足利直義、石清水八幡宮に入城 ※尊氏派の先鋒として山名時氏(当時は尊氏派)が進発した。(ただ、時氏はその9日後に直義方に寝返る。) ※尊氏軍は状況に応じて義詮がいる京都に向かうか、直義がいる河内国に進撃するか決める方針だったらしい。 |
1/10 | 尊氏-師直軍、山城国山崎に到達 ※赤松範資、淀川で直義軍と弓射戦 ※同日、斯波高経が二階堂行諲、行珍を伴い京都を脱出し、直義のいる石清水八幡宮に参じる 【斯波高経】…足利一門の中で最高家格を誇る。越前守護を務めていたが、この時点では尊氏に警戒されて分国越前を失っていた可能性が高い。 信濃国では諏訪直頼(直義派)の攻撃により、小笠原政経(政長の弟)ら降伏 ※筑摩郡放光寺に籠城していた ※諏訪直頼は甲斐国に進出し、須沢城に籠城する高師冬攻撃に参加する |
1/12 | 尊氏軍、石清水を攻撃するのに、船を用いて淀川を渡るか橋を架けるか議論 ※開戦は16日に予定 |
1/13 | 上杉朝定、朝房、今川範国、京都脱出し八幡へ(→直義派に) ※義詮は彼らの邸宅を破壊 ※桃井直常と南朝連合軍、西坂本(近江国)から雲母坂(きらら坂)を下って松ヶ崎と藪里に出現、藪里の在家を焼き払う ※上杉家は全員直義派であったが、重能、憲顕らと異なり、朝定・朝房が直義派を明確にしたのは比較的遅い方だった。 【今川範国】…足利一門。駿河国守護。1349年8月の御所巻の時点では師直方についていた。 |
1/14 | 須賀清秀、八幡へ(→直義派に) ※義詮の軍勢が清秀を捕らえようとするが逃げ切られる。 【須賀清秀】…もともと師直与党であり、1349年閏6月に直義が光厳上皇を訪問した際に師直とともに名を挙げられた。御所巻では尊氏と師直の間の使者を務めた。 |
1/15 | 足利義詮(尊氏派)、京都を脱出し尊氏-師直軍に合流 ※京都を守っていた足利義詮は桃井直常の接近により早朝に京都を脱出 ※下総守護千葉氏胤はこの時点で義詮を見限り八幡へ(→直義派に) ※尊氏派の諸将(高師直・師泰・仁木頼章・義長・細川頼春・佐々木道誉)の邸宅が出火。留守のものが自分たちで火をつけたらしい。 ※昼頃に桃井直常は入京し、北朝光厳上皇の持明院殿を訪問 →義詮、尊氏-師直軍と向日市付近で合流し、反転して桃井直常と京都市街戦へ ※石清水八幡宮を攻める予定が方針転換。京都市街戦へ(第3次京都合戦)。 ※尊氏軍は高師直、高重茂、渋川氏、仁木兄弟、細川清氏、佐々木道誉ら。佐々木道誉は近江国に行こうと考えていたが園城寺の僧兵の妨害で引き返してきた。 ※桃井直常は法勝寺に陣を置き、三条河原付近で尊氏軍と戦闘を繰り広げる。 ※尊氏は二条京極の吉良満義邸に本陣を置く。 ※激戦の末、尊氏勝利。桃井軍は関山に撤退し、守備に専念 |
1/16 | 尊氏-師直軍、丹波国へ撤退 薬師寺公義、佐々木善観、千秋高範、小笠原政長、山名時氏、直義派に寝返る ※桃井直常との市街戦に勝利したが、なぜか兵力減少が止まらず、敵兵が増える一方だったため丹波国へ撤退 ※尊氏は天龍寺で一服する予定だったが夢窓疎石に断られる。 【薬師寺公義】…高師直の重臣。関東における上杉憲顕(直義派)の勢力増大に伴い高師冬を見限って京都に逐電するも、京都も直義が手中に収めており、直義派に寝返る。のち、尊氏派に戻る。 【佐々木善観】…佐々木道誉の実兄。 【千秋高範】…前日、尊氏が京都に到着した際、光厳上皇邸に使者として参上したばかり。 【小笠原政長】…信濃守護。つい6日ほど前まで信濃で部下が直義党と交戦していたが。 【山名時氏】…若狭・丹波・丹後・伯耆・隠岐守護。昨日まで桃井直常と交戦していたが。 |
1/17 | 直義派諸将(桃井直常・吉良満貞・斯波高経・千葉氏胤)、入京 直義、斯波高経に京都守備を命じる 高師冬、甲斐国須沢城で戦死 夢窓疎石の仲介で尊氏と直義の和平交渉が行われたが交渉決裂 ※甲斐国須沢城は上杉憲将による。市河経助、市河泰房らも参戦。 ※吉良家は親子で陣営が別れた。吉良家は足利一門であったが、複雑な婚姻関係からどちらの陣営につくのか苦渋の決断を強いられていた。 |
1/18 | 尊氏-師直、丹波国香山寺城に籠城しようとしたが、追い返される ※若狭路を通り近江国の佐々木道誉の城に向かおうとしたが実現せず |
1/19 | 高師直が北陸に逃走するとの情報が入り、斯波高経・千葉氏胤が近江国坂本に出陣、山名時氏、石塔頼房も丹波方面へ向かう 佐々木六角氏頼、八幡に赴き、直義に所領を安堵される 直義、北朝に銭三万疋を献上する 【佐々木六角氏頼】…尊氏派として石塔頼房や上野直勝と交戦していた。 |
1/21 | この頃、尊氏-師直、播磨国書写山に転進、義詮は丹波国岩屋山石龕寺(せきがんじ)にとどまる ※丹波国に地盤がある仁木頼章・仁木義長兄弟が義詮に従う |
1/22 | 石塔頼房、細川顕氏へ上洛を勧める ※同時に顕氏に讃岐国の島津領を襲うことをやめるよう説得。島津氏は直冬陣営に入ったため。 |
1/- | 石見国に遠征していた高師泰、書写山に在陣する尊氏-師直軍に合流する ※上杉朝定が八幡から海路で備後国鞆へ赴き、備中国で師泰軍と戦ったが、師泰軍が大勝 ※その後も数々の妨害を振り切り合流 ※備後国を警備していた高師夏も尊氏-師直軍に加わる。 |
我々の真の敵は北条を裏切った尊氏。
中先代の乱では直義とは敵対したけど、今回は手を結ぼう。
よし、もうすぐ京都じゃ。
坊っちゃん(義詮)なんか一瞬で蹴散らしたるわ。
悔しいが、しょうがない、ひとまず京都脱出だ!
おー、義詮、どこ行くの?
父ちゃん!
どこ行くって…
桃井直常が京都に侵入してきて退却してきたのです!
あー、あいつまあまあ強いからねー。
まあ、いいや、一緒においで。
あれ、義詮が反転してきた。
ん?義詮だけじゃなくて、尊氏と師直もいるぞ!
相手にとって不足なし!!
おりゃーーー
いいぞー、義詮。
こっちもいくぞ、おりゃーーー!
大変です、尊氏様、こっちが勝っているのに敵兵がなぜか増えます!!
ここは一旦、兵を立て直しましょう!!
ハハハ、いつからこんな人気なくなっちゃったんだろ?
相手のフェイクニュースが効いてるのかなー
まあ、いつか盛り返すからね。
斯波高経です。
新田義貞を倒したのは覚えてますかな?【こちら】
今回は直義方につきます。
山名時氏です。
直義方につきます。
このときの判断が後に子孫たちの代で起きた「応仁の乱」に影響します。
石見国ではエラい目にあったけど、なんとか合流できたよ。
尊氏様、師直、挽回しよう!
関東執事、高師冬です。
関東はもう直義方優勢でダメです。
私も死にます。無念、、
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