こんにちは。
大正時代は戦争がなかった・・・わけではございません。
日露戦争後、第1次世界大戦に参戦した日本は、「シベリア干渉戦争(シベリア出兵)」にも参戦することになります。
しかし、国内では米騒動が勃発、
国外では日本が「出兵数」を守らなかったことで日米摩擦となります。
以下、『シベリア出兵』(麻田雅文、2016年)、前回の読書メモのつづきです。
<第1章:日米共同出兵へー1918年>
【1.チェコ軍団の救出へーアメリカへの呼びかけ】
チェコ軍団とは
★アメリカが出兵に踏み切ったのはチェコ軍団が原因である。
※オーストリアのハプスブルク家の支配を逃れようとロシアに移住していたチェコ人・スロバキア人が独立を目指してオーストリアと戦うロシア帝国に協力したもの。チェコ軍は臨時政府にも承認されていたが、ソヴィエト政府が講和してしまったためロシアに居場所をなくした。彼らは西部戦線に行こうとソヴィエト政府の許可を得てウラジオストクから太平洋を渡り、アメリカ経由でフランスに行こうとしていた。
蜂起するチェコ軍団
★1918年5月14日、西部戦線へ向かうはずのチェコ軍に事件が起きる。
※捕虜として西へ帰国するハンガリー人と東に向かうチェコ人がすれ違う際、ハンガリー人がチェコ人に鉄片を投げた。これに怒ったチェコ人は犯人を殺害。現地のソヴィエト当局は手を下したチェコ人たちを逮捕したが、3日後にチェコ軍が街を制圧して仲間を奪還。
★この頃、トロツキーに武装解除を命じられるも拒否し、各地で反旗を翻す。
※赤軍はなすすべなく、わずか3ヶ月でヴォルガ河から極東までチェコ軍団が占領。
チェコ軍団を救出せよ
★チェコ軍はシベリアを席巻したが、東西の連絡が途絶えたため捕われたとの憶測が流れる。
※連合国にチェコ軍の危機の噂が流れ、英仏伊は救援軍を日米に強く求めた。
(♨というよりも、チェコ軍がもしシベリアに居続けてそのまま独立でもされたら厄介になるからではないか?)
アメリカからの出兵の誘い
★ウィルソン「日米とも7000人の兵力を限定した地域に派遣する」ことを提案。
※あくまでもチェコ軍の救出のため。
伊東巳代治の陰謀
★アメリカからの共同出兵提案は慎重論を吹き飛ばす。
※伊東巳代治は憲法起草者の1人。アメリカが満蒙まで手を伸ばすことを恐れ、ウラジオストク派兵後、シベリア全土に展開する案。
外交調査会の抵抗
★出兵反対の原敬と牧野伸顕は外交調査会委員として反対。
※しかし政府は修正案を出すことで決裂回避。結論からすると日本軍派兵は1万~1万2000人と伝えた。
原敬の黙認で出兵へ
★8月1日、ついに1万2000人で派兵決定。
※原が絶対反対を言いきれないのを伊東は見越していた。半年以上の議論を経てようやく決定。
日米の出兵宣言
★8月2日シベリア出兵を宣言。宣戦布告ではなく出兵宣言であったことがシベリア出兵の特徴。
※遅れてアメリカ、イギリス、フランス。ソヴィエト政府とはこれにて国交断絶。
米騒動とシベリア出兵
★シベリア出兵が米騒動拡大のきっかけに。
※7月22日の夜、富山県の漁民の妻たちの井戸端会議からの抗議が「越中女一揆」として報道されると瞬く間に全国へ。米騒動はロシア革命との対比で語られたことは興味深い。1ヶ月半にわたり暴動。
軍部の新聞操縦
★読売新聞の社説が途中か出兵賛成に変わったのは軍部(田中義一)から資金流入があったから。
※一致したのは米騒動における寺内内閣の失政。(♨もともとシベリア出兵に反対していたのに気の毒だ…)読売新聞の創業者は本野一郎外相の父。本野と親しかった秋月左都夫が社長をしていたが、秋月は牧野伸顕の義兄でもある。しかし、読売新聞は経営難だったため資金を受け取り、田中の子飼いの記者が雇われた。陸軍のメディアコントロールはシベリア出兵からはじまる。
マスメディアの弾圧と検閲強化
★出兵目前の7月30日は、各紙は出兵関連の記事を差し止められた。
※大阪朝日新聞は発行禁止になりかける。出兵反対派の退陣で廃刊を逃れる。中央公論も検閲を受け、一部掲載禁止。
(♨こういったことはよくない前触れ…)
【2.ウラジオストク上陸、北満州からの進攻】
兵力制限に反発する陸軍
★寺内首相以下、日本の軍人たちは出兵数や出兵地域についてのアメリカの定義を軽んじていた。
※このことが出兵をめぐる日米摩擦のきっかけとなる。なんでも陸軍が最初に提案した数字は15万人程度。
ウラジオ派遣軍総司令部の創立
★司令官には上原勇作参謀総長が名乗り。
※アメリカに配慮して兵力を限定した寺内内閣には統帥権を犯したと怒り、7月に辞職を願い出ていた。上原の転任には山縣も協力したが、後任の参謀総長がいないとのことで参謀総長にとどまる。
★大谷喜久蔵陸軍大将が任命。
※青島守備軍司令官としての外交手腕が見込まれた。上原は出兵の真意を大谷に訓示。
ウラジオストクへの出兵開始
★8月3日、長州出身の大井成元率いる第12師団が動員。大井はのち二代目のウラジオ派遣軍司令官となる。
出兵兵力の合意を破る
★結局日本軍は8月中に約7万2400人が動員。
※チェコは4万。ほかアメリカ9000、イギリス7000、中国2000、イタリア1400、フランス1300であり、日本の規模は群を抜いている。
北満州からザバイカル州への出兵
★日本軍は二方面から展開。
※まずウラジオストク。ここでは足並みをそろえた。もう1つは満鉄で北上してザバイカル州へ進軍する部隊。これは日本が単独で計画しており、中国は、自国で騒乱を起こすセミョーノフとそれを支援する日本軍を苦々しい思いで見ていた。
中国政府を借款で動かす
★日本は中国政府の了解を待たずに動員の準備を始める。
※のち段祺瑞国務総理が内諾するが、その際、中国軍も出兵し、軍費と武器の援助を申し受けた。単独供与は国際借款団を出し抜く形になるので難色を示し、植民地である朝鮮銀行、台湾銀行からの供与という形にする。
アメリカとの出兵地域の合意を破る
★日本軍は各地を制圧するが、原が懸念していたようにアメリカは日本軍の展開に反発する。
※後藤外相は石井菊次郎を通じて増員を通告するが、ランシング国務長官はあきれたのか怒ったのか沈黙。
快進撃の日本軍と占領体制の構築
★アメリカとの合意をないがしろにした作戦は参謀本部の既定路線であった。
※寺内首相も楽観的。
朝鮮軍の出動
★ロシアに住んでいる朝鮮人たちも日本軍の標的となった。
※沿海州は1910年日韓併合前後から抗日の拠点となっており日露は朝鮮人の民族運動を双方が取り締まる条約を結んでいたほど。この沿海州南部の制圧が参謀本部の本当の狙いだったとも。朝鮮人の中にはポリシェヴィキに身を投じ日本軍と戦うものも。
【3.原敬内閣による兵力・派兵範囲の抑制】
寺内内閣の総辞職
★山縣は寺内に愛想をつかす。米騒動、病気もあり、シベリア派兵40日後に寺内正毅内閣総辞職。
※原にはしたくなかった山縣は西園寺を推すが拒否。西園寺が原を推す形で原内閣成立。
「平民宰相」原敬の限られた権力
★当時の首相の権力は現代とは比較にならないほど小さい。
※あくまで国務大臣の1人と言った程度で各国務大臣への命令権はない。原は山縣とも良い関係を築くように心がけ、山縣派の陸軍、官僚も原に逆らいにくくなった。
内田康哉の外相任命
★外相は牧野伸顕が固辞したためロシア大使を歴任した内田康哉に。
※内田はソヴィエト政府をべた褒めして外務省でそしられロシア大使を辞任していた。陸奥の下で働いていた時から20年来の親友でもある。ともに出兵反対派。
原敬と田中義一の連携
★陸相は意外にも多くの予想に反して田中義一。
※原は黒幕が田中義一ということも知っていた。また、第2次西園寺内閣での上原勇作の問題の背後にいたことも知っていた。山縣の推薦を原は飲んだ。田中は田中で原に接近して政党政治家になる野心があったとも言われる。
軍備のためなら出兵では妥協
★田中は来たるべき総力戦に向けて軍備拡充すべきという点で原と意見が一致。
※バイカル湖より西には出兵しないという点も一致。異なるのがアメリカと協調するか否かということ。
原内閣による兵力削減
★アメリカの抗議を受けてシベリア駐留の日本軍削減が決定。
※田中も賛成。田中の変わり身の早さには驚かされる。しかし、これは政府と参謀本部の長い闘いの始まりでもあった。兵力削減もアメリカの不信感を払拭するには至らず。
鉄道を制するものがシベリアを制す
★指揮権、鉄道管理で日米は争う。
※結局、連合国管理委員会のもとに置かれることになるも、日米間の諍いは続く。
第1次世界大戦の終結
★日本がシベリアで展開し終えたころに第1次世界大戦が終わる。
※ソヴィエト政府はブレストリトフスク条約破棄を宣言し、ウクライナを支配下に。連合国は干渉を本格化させようとするが兵士の拒否などもあり進撃できず。チェコ軍は早々に連絡がとれただけに各国はなぜシベリアに出兵し続けるのか、迷走がはじまる。
【年表】<1918年5月~12月>
- 5・14 チェコ軍団によるチェリャビンスク事件、ロシア各地で蜂起
- 6・29 チェコ軍がウラジオストク占領
- 7・8 アメリカ、日本にチェコ軍救出の出兵提議
- 7・16 エカテリンブルグにてニコライ2世と家族が処刑される
- 8・2 日本政府、シベリア出兵を宣言
- 8・3 イギリス軍のウラジオストク上陸
- 8・7 日本とソヴィエト政府の外交関係が事実上断絶
- 8・12 日本の第12師団がウラジオストクに上陸
- 9・29 原敬内閣が成立、陸相は田中義一
- 11・4 ドイツのキール港で水兵が暴動(ドイツ革命)
- 11・11 連合国、ドイツとの休戦協定に調印。第1次世界大戦終結
- 11・16 ランシング国務長官、日本の駐米大使に出兵数などを文書で抗議
- 11・18 オムスク政府でクーデター。コルチャークが独裁者に
- 12・24 原内閣、シベリアからの大量撤兵を決定
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