こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「シベリア出兵」第4章「北サハリン、間島への新たな派兵」です。
大正時代に日本が一時的であれ極東地域を支配していたという事実には驚かされました。
それと同時に歴史的に何度も壊滅的と思われる損害を受けながら、すぐに立ち上がってくるロシア(ソ連)という国にも驚かされるのですが。【コチラも】
以下、「シベリア出兵」第4章読書メモです。
<第4章:北サハリン、間島への新たな派兵ー1920年>
- 1 【1.尼港事件ー北サハリン占領へ】
- 2 【2.間島への越境、ウラジオストクへの執着】
- 3 【年表再掲】<1920年3月~12月>
- 4 書籍はコチラ。
【1.尼港事件ー北サハリン占領へ】
サハリン島略史
★1920年に日本軍はアムール州とザバイカル州から撤退し、沿海州南部と北満州の中東鉄道沿線に兵力を集中させた。その一方、別の地域(北サハリン)へも派兵すると言う矛盾した行動に出たためシベリア出兵は長引くことになる。
※樺太は1855年の日露和親条約で日露の雑居地となっていた。1875年の千島樺太交換条約でロシア領となり、日露戦争の終盤で日本軍が占領、1905年のポーツマス条約で北緯50度以南を日本が獲得していた。
北サハリンの石油を狙う日本海軍
★北サハリンに野心を燃やしていたのは石油を狙う日本海軍である。
尼港事件の勃発
★北サハリン占領の口実となったのは尼港事件である。
※1920年1月、23歳のトリャピーツィンをリーダーとする4000人のパルチザンがニコラエフスクを包囲。反革命軍や彼らを支持したロシア人を処刑。
【ヤーコフ・トリャピーツィン】
【ヤーコフ・トリャピーツィン】
1920年に起きた赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺である尼港事件の首謀者。
ニコラエフスクの日本人たちの決起
★現地の日本人も武装解除を要求される。
※救援部隊は現地で和平成立との報を受けて旭川に帰隊してしまった。現地の日本人たちは数で勝るパルチザン相手に乾坤一擲の勝負に出る。
中国艦の砲撃と朝鮮人の離反
★奇襲は成功したかのように見えたが、予想外だったのは敵がパルチザンだけではなく、中国艦隊、朝鮮人住民もパルチザンに加わったことである。
※結果、日本人は大半が戦死。残ったものは監獄に収容。
原首相と田中陸相の反応
★原内閣は最終的に救援軍派遣をあらためて閣議決定。
※北サハリンを2000人で占領し、ニコラエフスクと連絡をとる作戦。田中はシベリアから撤兵して代わりに北サハリンを占領する案を出すが、陸軍内で反対され孤立。
惨殺された日本人たち
★トリャピーツィンは市街地を焼き払い、日本人捕虜を全員殺害したうえで撤退。
※しかし、途中で部下に裁判にかけられ家族と共に銃殺。極東共和国を建国して日本軍との直接対決を避けようとするモスクワに批判的であったため、モスクワの怒りを買ったためという説も。尼港事件は日本人735人が犠牲となった。
いきり立つ世論
★香田一等兵、「大正九年五月二十四日午後十二時忘るな」との走り書きを残す。
※事件を特集する雑誌や映画が出る。
世論を操る者たち
★復讐を求める世論の背後では尼港事件を機に北洋漁業の利権に結び付けようとする漁業家も。
※またしても東大七博士が訴えた。実は九博士も七博士も大谷誠夫というジャーナリストが仕掛け人。彼のスポンサーが三浦良次であり、北洋漁業トップの堤清六の側近である。
加藤高明の出兵批判
★原内閣のもとでシベリア出兵は確固たる目的がないと憲政会総裁加藤高明は批判し続ける。
【加藤高明】(1860~1926)
愛知県出身。東大法学部を首席で卒業後三菱入社。岩崎弥太郎の長女と結婚。1900年外相、1913年立憲同志会腠理。1914年大隈内閣で外相。対中強硬外交を進める。のち憲政会総裁。1924年6月首相就任。
原内閣への不信任案
★憲政会の内閣攻撃は加藤、浜口らにより次第に抑制。
※内閣への攻撃が国家の声望と尊厳を列国によって傷つけてはならぬとの配慮。もっとも言論界は黙っておらず。与謝野晶子は「パルチザンが悪いのではない」とし、石橋湛山は「世論が復讐に向かうのは国家にとって百害あって一利なし」として尼港事件の悪用化を警戒。
北サハリン占領へ
★尼港事件は北サハリン占領に道を開くきっかけになった。
※1920年7月3日、ロシア領北サハリンを「保障占領」することを宣言。なぜ事件現場ではないのか、というのはアメリカも抗議。
「保障占領」の始まり
★北サハリンはサハリン州派遣軍により直接統治されることになった。
※軍政部は日本人とロシア人で構成。
北サハリンへの移民増加
★人口増加し、物資欠乏、物価高騰が問題に。
※日本からの移民も多かったが、ウラジオストクから逃げてきたロシア人、朝鮮人、中国人の難民の数はそれを上回る。
資源獲得が最優先の北サハリン統治
★英米企業が北サハリンの油田開発に参入しようとしたがサハリン州派遣軍により阻止。
※このことが日米関係をさらに悪化させた。また日本政府は保障占領と言うあいまいな領有ということもあって思い切った投資はできず。
カムチャッカ半島への艦船派遣
★さらに北まで出兵範囲は広がり、カムチャッカ半島は日本の影響下に入った。
※以後、1922年秋までオホーツク海では日本軍の艦船がにらみをきかせることとなる。
【2.間島への越境、ウラジオストクへの執着】
撤兵を言いだした山縣有朋
★1920年末になるともはやシベリアでは出兵を続けても先がないことが明らか。
※コルチャークは銃殺。ホルヴァートはハルビン追放。セミョーノフも亡命。日本が希望を託せる駒はなかった。山縣は原に撤兵をもちかけるが、原も半年前に撤兵をもちかけており、原は山縣の真意をつかみかね留保としていた。
原首相、撤兵を拒む
★原と山縣の考えは似ていたが、ウラジオストクへのこだわりという点で異なった。
※ロシアの過激主義者と朝鮮人運動家が結びつくのを避けるために原にとってウラジオストク撤退はあり得なかった。田中も同じで、実は日本は琿春(こんしゅん)、間島(かんとう)で新たな軍事行動を展開していた。
朝鮮独立運動の拠点、間島
★間島地方は三一独立運動で弾圧を避けた活動家が多く逃げ込んでいた。
※1920年春頃から紛争が多発しており、出兵を考え始めていた。もっともここは中国領。
日本軍の間島出兵
★出兵は中国の反対を無視して行われた。他国の非難を受ける。
※背景には対華二十一カ条と南満東蒙条約での間島地方も日本と主張したこと。この地域を治める張作霖の親日的態度も出兵を可能にした。1921年1月、日華陸軍共同防敵軍事協定は廃止。中国政府に代わって張作霖を援助して北満州での権益を確保する方針が決まっていたから特に反対もしなかった。
沿海州からの撤兵を遅らせた間島出兵
★間島への出兵がウラジオストクからの撤兵を拒む理由となった。
※朝鮮人の民族運動の背景にはロシア共産主義者、チェコ軍団の影も。
【年表再掲】<1920年3月~12月>
- 3・12 ニコラエフスクの日本軍がパルチザンを襲撃
- 4・1 アメリカ軍、シベリアからの撤兵完了
- 4・4 日本が沿海州の武装解除を開始
- 4・6 極東共和国建国
- 4・25 ソヴィエト政府とポーランドが開戦
- 5・24 3-5月にかけて尼港事件
- 6・3 ニコラエフスクに日本の救援部隊が到着
- 7・3 北サハリン占領とザバイカル州撤兵を官報で告示
- 7・9 尼港事件首謀者トリャピーツィンが銃殺される
- 7・12 中国軍がウスリー地方より撤兵
- 7・15 日本軍と極東共和国が停戦協定を結ぶ
- 7・21 日本軍、ザバイカル州から撤兵開始
- 8・15 赤軍がワルシャワ攻略に失敗
- 10・12 ポーランドとソヴィエトが停戦
- 10・21 極東共和国軍がチタ占領。セミョーノフは中国に亡命。
- 12・8 山縣有朋、原敬に北サハリンを除く撤兵を助言
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