~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、トラウトマン工作後に行なわれた、「宇垣工作」についてです。

「総力戦のなかの日本政治」(吉川弘文館 日本近代の歴史⑥:源川真希、2017年)などを参考にさせて頂きました。

【前回はコチラ】

【年表】国家総動員法(1938.4.1)~武漢占領(1938.10.27)

1938年日本中国
1.16第1次近衛声明
3.28中華民国維新政府設立@南京
※梁鴻志(北洋軍閥系)


中華民国臨時政府@北京
1937.12.14~
4.1国家総動員法公布(※1)
4.7徐州作戦(※2)
5.10アモイ占領
5.19徐州占領
5.26宇垣一成、外相就任(※4)
5.30東條英機、陸軍次官就任
6.黄河決壊事件(※3)
6.15御前会議
7.五相会議「時局に伴う対支謀略」
・・・「支那一流人物」による新興政権成立を目指す
高宗武-板垣陸相会談
7.29張鼓峰事件(※5)
8.22武漢作戦
9.30「宇垣工作」失敗、宇垣外相辞任(※4)
10.21広東占領
10.27武漢占領

国家総動員法

総動員体制については後述予定。

1937.8.24国民精神総動員実施要綱
※「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」
※会社、学校、言論機関にも協力を求める
1937.9.3輸出入品等臨時措置法適用
※生産力拡充を進めるが輸入超過にならないよう調整

臨時資金調整法適用
※上2つの制定は日中戦争前の近衛内閣発足時

軍需工業動員法
※制定は第1次大戦期
※軍需工場の管理を陸海軍が行なう
1937.9.10国民精神総動員実践要綱(文部省作成)
※具体的な方法が示される
※節約も推奨される
1937.9日本婦人団体連盟結成
※戦争協力により女性運動も目的を達することができると考えた
※「白米食」をやめる運動も
1937.10企画院設置
※以後の物資動員計画を担う
※資源局と企画庁が統合
1938.3.8電力管理法
※電気事業を国家管理に
1938.3.16社会大衆党による積極支持
※反軍部と思いきや、社会大衆党はファッショ化に積極的に賛成
※西尾末広、近衛首相に「ヒトラーの如く、ムッソリーニの如く、スターリンの如く」と述べて問題となり議員除名
1938.4.1国家総動員法
※人的資源、物的資源を国防目的に運用
※厳しい罰則規定
1938.4.2農地調整法
※小作人の地位向上
※小作争議に対する調停の権限を強化する面もあった

(※2)徐州作戦

北支那方面軍と、中支那派遣軍により中国軍に攻撃。

しかし、徐州占領時に中国軍は既にいなかった。

※火野葦平『麦と兵隊』はこの時の様子。

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(※3)黄河決壊事件

日本軍の足止めのために「蒋介石」により行われました。

これにより中国人数十万人(※)が被害を受けたと言われます。

(※)【コチラ】によりますと、死亡者100万人。

wikipediaも含めて要約しますと、

①中国軍が黄河決壊
②日本軍と現地農民が復旧工事
③そこを中国軍が攻撃
④堤防決壊を日本軍のせいにする

といったところでしょうか。

ちょっと驚きますよね。

さらに、

⑤飢饉に陥り、1942年には300万人が餓死
⑥日本軍が支援(!)
⑦日本軍と現地農民が「結託」して中国軍を撃破

・・・なんか、そのまま映画になりそうなストーリーですね・・・。(ならないでしょうが)

あまりに人命が軽いのですよね・・・。

300万人餓死って・・・。

 

(※4)宇垣工作

【宇垣一成】(コチラも)

長州閥の後継者。
陸軍大臣時代の1924年に「宇垣軍縮」を敢行したことから陸軍内にアンチが多い。その後、1931年の「三月事件」では首相になる可能性があり、1937年の広田内閣総辞職後には実際に組閣大命が下った。
しかし、石原莞爾らの陸軍内への工作により陸軍大臣を受ける人物が誰もいなくなり、組閣を諦めざるを得なかった。
(のち、このことを石原は人生最大の後悔と述べる。)

「国民政府を対手とせず」と言ったものの、近衛文麿の本音としましては日中戦争を終結したかった、というかもう首相も辞めたかったのです。

そのため、外務大臣を広田弘毅から宇垣一成に変更しました。

宇垣一成は、「第1次近衛声明撤回」を条件に外務大臣就任。

独自のルートを駆使して日中和平の道を探ることになります。

(※陸軍大臣には石原莞爾の盟友である板垣征四郎が就任しました。)

宇垣一成が外務大臣になって、和平に向けて邁進。

「満州建国の真実」で鈴木荘一先生は外務省をコキ下ろしているけど、外務省も積極的に和平の道を探っていたではないか・・・

と、思ったら大間違い。

外務省は、和平工作をする宇垣一成の足を引っ張り続けておりました!

 さらに近衛首相も宇垣のはしごを外す形で、出先機関を設ける、汪兆銘に接触するなど・・・

「宇垣工作」は頓挫しました。

【白鳥敏夫】(1887~1949)【コチラも:wiki】

外務省で宇垣工作の妨害をした代表とも言える人物が、「白鳥敏夫」。

大正時代の名外務大臣・石井菊次郎、邪馬台国九州説を唱えた東洋学者の白鳥庫吉を叔父にもつという家系。

それはともかく、とにかくひどい悪玉でした。

・意見の異なるものを口撃(石井菊次郎、芳沢謙吉、有田八朗、小幡酉吉・・・)
・赴任を渋る、赴任先から何度も帰国要請
・外務省の公金を使って芸者遊び、子を孕ませる
・日独伊三国同盟を推進、ドイツと組むよう上層部を批判
・「ファッショの本元は日本」と主張
・天皇が平和主義者なのはそそのかされているから発言(昭和天皇は白鳥が靖国に合祀されたために参拝しなくなった)
・戦争を煽る
・躁病

ここまで悪玉はいない・・・

それでいて若手からはそれなりに人気があったり・・・

でも、なんでこんな躁病患者が幅を利かせていたのでしょうか・・・

良書を求めたいと思います。

(※5)張鼓峰事件

これは満州南東部で生じたソ連との国境紛争です。

日本は互角かそれ以上に戦いました。

しかし第1次世界大戦以来はじめての欧米諸国と戦い、その進化を目の当たりにしたことでしょう。

最終的に外交的に解決しました。

(宇垣外相)

まとめ

★「トラウトマン工作」失敗後、外相に就任した宇垣一成によって「宇垣工作」が行なわれた。

★しかし、反対派(外務省にも陸軍にもいる)および宇垣のことを良く思わない者たちにによって潰された。

★「張鼓峰事件」解決は宇垣の功績でもある。

★一方、中国軍は黄河を決壊させて自国民を危険にさらしていた。