~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回、ご紹介しますのは「北朝天皇で打線を組んだ」です。

え、なんだそれは?

と思う方もいらっしゃるかも知れませんが、室町時代前期、「南北朝時代」と呼ばれる時代がありました。

「後醍醐天皇」(南朝)を知っている方は多いかと思いますが、「光厳天皇」(北朝)を知っている方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。

そんな、マイナーな「北朝天皇」ですが、実は、北朝天皇で打線を組むことによって、室町時代から戦国時代への「移行期」が鮮明に浮かび上がってくるんですよね。

なお、本書は石原比伊呂先生の書籍「北朝の天皇」の影響を十二分に受けております。

北朝打線

1捕光厳天皇(在位1331-1333)率.288 HR 20地獄を2度見た天皇
2一光明天皇(在位1336-1348)率.260 HR 4光厳天皇の良い弟
3中崇光天皇(在位1348-1351)率.288 HR 14悲運の正統派
4遊後光厳天皇(在位1352-1371)率.275 HR 15棚ぼた的に即位し居座る
5三後円融天皇(在位1371-1382)率.100 HR 0DVなど悪評判の後光厳息子
6投後小松天皇(在位1382-1412)率.278 HR 16
10勝11敗 防4.50
南北朝合一
7左称光天皇(在位1412-1428)率.050. HR 0病弱
8二後花園天皇(在位1428-1464)率.290 HR21崇光天皇末裔
9右後土御門天皇(在位1464-1500)率.250 HR 8将軍と一緒に酒浸り
控え後柏原天皇(在位1500-1526)率.150 HR 0即位から即位礼まで21年

1捕 光厳天皇 率.288 HR 20

通称:「地獄を2度見た天皇」

後醍醐天皇が元弘の変(1331年)で流されたために天皇となったものの、その後の倒幕運動で他の皇族、六波羅探題軍とともに京都から近江に逃げようとしたところを捕まり、六波羅探題軍が集団自害するのを目の当たりにしました。

これが「最初の地獄」。

その後、足利尊氏と提携することで後醍醐天皇を吉野に追いやり、治天の君に返り咲くも、その足利尊氏が「観応の擾乱」で南朝に降伏する形をとったことでその地位を失い(1351年)、

さらに1352年に他の皇族とともに南朝軍に拉致されて吉野に連れて行かれてしまったのが、「第2の地獄」(~1357年)。

それでも一緒に連れ去られた息子の崇光天皇に琵琶を伝授することで、花園天皇から受けた教育を次代に伝えました。

ちなみに1342年、酔っ払った美濃国守護土岐頼遠により牛車に矢をかけられた「土岐頼遠事件」の被害者でもあります。

あまりにも波乱万丈な天皇ですが、その不屈の精神から学ぶものがあります。

2一 光明天皇 率.260 HR 4

光厳天皇の8歳下の弟です。

1331年「元弘の乱の失敗で後醍醐天皇廃位、光厳天皇即位」

→1333年「後醍醐天皇挙兵して鎌倉幕府を倒し、光厳天皇廃位」

→1336年「後醍醐天皇失脚に伴い、光厳天皇弟の光明天皇即位」。

という流れで即位しました。

1336年の段階でなんでまた光厳天皇が再登板しなかったのかといいますと、

廃位されたイメージというのがあって、それよりは新しい天皇を立てたほうがスムーズという足利方の思惑があったんではないでしょうかね。

いかんせん光厳天皇と光明天皇は仲が良かったことで知られ、治天の君は光厳天皇であり続け、光明天皇には息子がいなかったことなどから、後継者で揉めることもありませんでした。

3中 崇光天皇 率.288 HR 14

光厳天皇第1皇子。

1348年に即位するも、1352年2月に、南朝によって拉致されてしまう

ついでに三種の神器も持っていかれてしまったため、北朝は大いに困った。

しょうがないので、4歳下の弟が継体天皇の例(=群臣議立)にならって即位して後光厳天皇となった。

ただ、問題は、光厳天皇が解放されて京都に戻ってきたとき(1357年)

父の光厳院から琵琶の秘技を伝受された崇光は自身こそ正嫡と思って、息子(栄仁)の立太子を望んだが、後光厳も自らの息子(緒仁)への譲位を望んだ(1370年)。

しかし、最終的に後光厳天皇が押し切る形となり、崇光天皇系は天皇から遠ざかることになる。

ただ、1428年、後光厳天皇の系統が途絶えたことにより再び天皇家に返り咲くのであり、

今上天皇も崇光天皇の血を継いでいる。

ちなみに、南朝に拉致されたのは崇光天皇のほか、光厳上皇(父)、光明上皇(叔父)、直仁親王で、直仁親王というのは光厳上皇の叔父にあたる花園天皇の息子にあたる。ここで光厳上皇は世話になった花園天皇の息子である直仁親王に天皇の系統を戻そうとしていた。

つまり天皇拉致事件がなければ今の天皇もまた別の人だった可能性もあるのだが、直仁親王の系統は出家などした記録はあるものの「途絶えた」ことになっている。もし「実は途絶えていなかった」なんて話が出てきたら面白いのに。

晩年は将軍義満からは冷遇される

4遊 後光厳天皇 率.275 HR 15

兄の崇光天皇が南朝に拉致されたため、急遽即位した。

しかし、三種の神器なしで即位したことなどから「正当性を欠く」とされ、また父である光厳院からも認められていなかった。

そういうわけで廷臣から「ナメられる」要素が高かったのだが、それだと後光厳天皇を即位させた幕府にとっても困る。

というわけで、幕府は後光厳天皇が求心力を高められるよう、日和見的な廷臣を処罰してサポートしていった。

そうして、後光厳天皇は息子を天皇にすることができた。

5三 後円融天皇 率.100 HR 0

後光厳天皇皇子として、崇光院との争いに勝ち即位したものの、その後の評価はすこぶる悪い。

「やるべきことをちゃんとやらないが、彼抜きで話を進めると機嫌を損ねる」といった具合。
(そういう人、現代でもいますよね…)

おまけに妻を「峰打ち」して大出血を負わせるというDV事件も起こしている。

義満とは同学年の、いとこ同士に当たるのですが、とにかくこのおバカさんが嫌い。

現代では完全に否定されているものの、かつて「義満は皇位を狙っていた」という定説があったのは、単に「後円融天皇が仕事ができなすぎるために嫌われていた」というのが真相です。

6投 後小松天皇 率.278 HR 16、10勝11敗 防4.50

第100代天皇。

義満に嫌われまくった後円融天皇の皇子なんですが、後小松天皇と義満の関係は烏帽子親を任せたり、楽器を一緒に演奏したりと極めて良好な関係を築きました。

在任中に南北朝合一が起きたため、日本史的にも重要な役割を演じる。

ただ、長男が病弱、次男は精神的にかなりヤバい奴で、後小松天皇の血統は次世代で途絶えることにったり、足利義教とはうまくコミュニケーションが取れなかったりと、人生の後半戦では弱かった。

7左 称光天皇 率.050 HR 0

生来病弱で、若いうちから何度も危篤に陥り、周囲が喪の準備をすると復活するということを繰り返していた。精神状態も不安定。

弟の小川宮も1420年の正月の席でいきなり妹に暴行を加えるなどやはり精神的に不安定で22歳で突然苦しみだし死去。(ちなみにその10日後に5代将軍義量も19歳の若さで死去。1420年代ってそんな年。)

1428年、27歳の若さで死去したが子供がいなかったために後光厳の系統から崇光の系統へと移る。

8二 後花園天皇 率.290 HR 21

84歳まで生きた「看聞日記」の著者である伏見宮貞成親王を父に持ち、跡継ぎがおらず病弱であった称光天皇の養子となる形で称徳天皇の死後、即位。

在任中、足利義教とは非常に良好な関係を築くも、嘉吉の変で義教を失う。

足利義政とは趣味が一緒でウマがあったものの、17歳下の足利義政をたしなめる場面も。

戦国に移行する混乱期にあって、努力を続けた天皇として知られます。

9右 後土御門天皇 率.250 HR 8

後花園天皇皇子。在任中に応仁の乱が起こる。

そして天皇家は戦乱を避けて将軍家と同居することになるのですが、どうなったかというと、6歳年上の義政、そしてその妻、2歳上の日野富子と一緒に「酒浸り」。

毎日酒宴を開き(主催者は義政)、毎回つぶれるのがデフォルト。公家たちは「酒で身体がもたない」と嘆くほど。

費用は将軍家もちなので、将軍家にとってはとんでもない負担だったのですが、将軍家は天皇家をいだくことで権威を持つことができたので「持ちつ持たれつ」の関係であったのです。

なお、義政の息子、義尚はその様子を見ていて、そうしたノリから離れていったとのことです。

控 後柏原天皇 率.150 HR 0

石原比伊呂先生の「北朝の天皇」で冒頭に出てくる天皇ですが、なんせ当時は応仁の乱で京都が焼け野原になった後で、財務状況は悲惨でした。

先代である父親の後土御門天皇は応仁の乱以前の即位だったので、普通に即位礼を行えたのですが、後柏原天皇は、1500年に即位してから、即位礼を行うまでになんと「21年!」も待たなければならなかったのです。

父の後土御門天皇が足利義政を頼ったのと同様に、後柏原天皇も足利義稙を源氏長者に任命するなどしてなんとかしてもらおうと思ったのですが、足利義稙も反対勢力との戦いでそれどころではなく(自分の夏服も新調できないほど)、

さらに当時、キングメーカーとして君臨していた管領・細川政元は「大がかりな儀礼を行ったところで実質がなければ無意味です」と言い切るタイプ(現代の感覚で考えるともっともとは思う)だったので、肩身の狭い思いをされたことでしょう。

ただ、すごいな、と思う点はそれでも天皇家が存続したということです。