こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期⑥:1276年」です。
「幻の高麗出征」が建議されました。
建治2年(1276年)年表
1 | 南宋、臨安陥落(※1) ※モンゴルのバヤン将軍により臨安占領。(事実上の南宋滅亡) ※陸秀夫らは幼い親王を連れて南に逃げる。(最終的に1279年、滅亡) |
3 | 「建治の異賊征伐」(※2) ※高麗侵攻作戦が立案され、出陣を求める軍勢催促や軍船調達命令が出される。 ※防衛戦争では新たな領地獲得がないため。 ※実施には至らず。 |
10/23 | 北条実時、死去。享年53。 ※金沢実時ともいう。時宗を補佐していた。 ※蔵書を集めて「金沢文庫」を開く(1275-)。 |
(※1)南宋、首都臨安陥落!
これには南宋の名将、呂文煥(りょぶんかん)の影響もあります。
1268年~1273年まで5年間に渡り元軍と対峙してきた呂文煥の能力を高く評価したフビライは、降伏を余儀なくされた呂文煥を処刑することなく、むしろ厚遇しました。
結果、以降の戦線では呂文煥の「人脈」により次々と「無血開城」していくのです。
そうなると、征服のスピードも早まりますね。
そして、バヤンを総大将として20万の大軍を送り込み、1274年には武漢を開城させます。
フビライは殺人や略奪を厳しく禁じ、バヤン配下の兵もそれを忠実に守ったために、モンゴル軍は南宋の降伏兵で膨れ上がりました。
そして、1276年、首都・臨安も無血開城となります。
遊牧民族というと、ひたすら略奪というイメージがあるかも知れないけど、近年はそうした一面的な解釈は改められてきています。
彼らにとって大切なのは土地ではなく、家畜の世話をする「人」。
よって、本来は無用な殺戮をしません。
(もっとも、恐怖を煽るために殺戮する場合もありますが。)
ちなみにこのバヤン将軍というのはペルシア人で私がスカウトした。
南宋との戦いの集大成において民族にとらわれない人事を行えるのが私の強みかな。
(※2)幻の高麗遠征
文永の役で九州の御家人たちはかなり頑張った…
しかし、防衛戦争では新たに領地が増えることがないので恩賞にも限界がある…
こうなったら高麗に攻め込んで高麗を領土としようか。
しかし、防備に予算を費やすほうが先では…?
うーん、そうだなぁー。
いくら鎌倉時代の武士が勇猛果敢とはいえ、これは攻め込まなくて良かったかもねー。
高麗は弱体化しているけど、元軍が駐留しているでしょ。
それに船を作るのも乗るのも大変だ。