こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期⑰:1293年」です。
鎌倉大地震の混乱に乗じ、執権・北条貞時は内管領として権勢をふるっていた平頼綱を誅殺しました。
これを「平禅門の乱」と呼びます。
正応6年/永仁元年(1293年)年表
2 | 竹崎季長「蒙古襲来絵巻」完成 ※安達泰盛への鎮魂でもある。 |
3 | 北条兼時(29)、九州へ ※六波羅探題を務めていた北条兼時、異国打手大将軍に選ばれたことで京都から軍勢を連れて九州へ。 ※北条兼時は北条時宗の甥。父の宗頼は元寇期に長門探題を務めるなど時宗を支えた。 |
4 | 名越時家(年齢不詳)、九州へ ※大隅(鹿児島東部)守護であった名越時家、異国打手大将軍に選ばれたことで鎌倉を出発し九州へ。 ※名越時家の祖父は二月騒動で誅殺された名越時章であったが、以後の名越家は得宗家に重巡となっていた。 |
4/13 | 鎌倉大地震(※1) ※死者23024人 |
4/22 | 平禅門の乱(※2) ※霜月騒動以降、勢力を伸ばしていた御内人・平頼綱が執権・北条貞時の指令により誅殺された。 |
8/5 | 永仁(えいにん)に改元 ※天変地異などが原因 |
(※1)鎌倉大地震
震源地は鎌倉周辺で、M7規模だってね。
まだ研究中らしいけど、津波もあったみたいです。
死者23,024人ってよくそんな細かい数字出したね…。
当時の鎌倉市の人口が10万人だとすると、1/5が死亡?
この混乱で若き執権・北条貞時(21)が決断したことは、権勢をふるっていた平頼綱の誅殺。
(※2)平禅門の乱
貞時は1293(永仁元)年には頼綱をも誅殺し、政務を一手に握った。(中略)…貞時は安堵を行う権限を将軍から奪い、得宗専制を完成させた
「詳説日本史研究」p152
私ももう20歳過ぎだ。これからは私が政治を行う。
頼綱はちょっと調子に乗りすぎ。
いい家建てたりな…。
平頼綱の恐怖政治でいったい何人が粛清されたことか…
熱海には「平左衛門地獄」と呼ばれる場所もあるくらい。
次、次男を将軍にしようなんて讒言だ…
え、告げ口したのは長男だと…??
平頼綱誅殺以後、霜月騒動で失脚した旧安達泰盛派が取り立てられます。
また、得宗家の権力は絶頂期を迎えます。
しかし、それが「終わりの始まり」というか。
ちなみに頼綱の長男・宗綱もまた、同族であり同じく得宗家家臣の長崎氏の讒言によって左遷させられるのでした…
【北条貞時】(1272-1311)
北条時宗の息子。父の早世に伴い13歳で執権に。平禅門の乱で平頼綱を討ち、得宗家の権力は絶頂期を迎える。しかし、30歳過ぎてからは酒に溺れて政務を怠ることが多くなり、得宗家の権力も弱体化していった。満39歳で没。