こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期㉑:1300-02年」です。
「永仁の徳政令」は二転三転し、結局、越訴(再審請求)は復活します。
北条貞時は自身の政治力に限界を感じたのか、はたまた過労による疲れか、たまたま見かけたハレー彗星を凶兆と考え出家してしまいます。
ちなみに、後二条天皇が即位し、2代ぶりに大覚寺統から天皇が即位しました。
正安2年(1300年)年表
7/ | 幕府、所領の質入れ売買禁止。越訴禁止。 ※再び「永仁の徳政令」の条文が復活。 |
越訴するということは、私の決定に不服を述べるということだからな。
その意味をよく理解するように。
正安3年(1301年)年表
1/21 | 後二条天皇(大覚寺統)即位(94代) ※後宇多上皇(91代)が院政開始。 ※2代ぶりの大覚寺統。 |
6/18 | テケリクの戦い(元vsカイドゥ) ※モンゴル高原に攻め込んだカイドゥを、テムルの甥・カイシャン率いる元軍が撃退。 ※この時に受けた傷が元でカイドゥは死去。長年に渡る争いに終止符。 ※カイシャンはのちにテムルの後継者となる。 |
8/22 | 北条貞時、出家(→北条師時が第10代執権に。)(※1) ※当時まだ29歳。 ※ハレー彗星を悪兆と考えた。 ※後任の執権には従兄弟で娘婿の北条師時(26歳)。兄弟のいない貞時は従兄弟の師時、宗方を引き上げた。 ※No.2である連署には7代執権・北条政村嫡男の北条時村(59歳)。 ※実権は引き続き貞時が握った。 |
8/- | 結局、越訴は復活 |
9/- | 鎮西探題・金沢(=北条)実政、出家 ※幕府は息子の政顕を後継者に指名。 ※政顕は1316年まで鎮西探題を務める。 |
11/- | 薩摩国・甑島に異国船200隻が出現 ※うち1隻から攻撃を受ける。 ※偶発的なものか意図的なものかどうかは不明。 |
正安4年/乾元元年(1302年)年表
6/16 | 母・忠子が亀山法皇に近づき、尊治(のちの後醍醐天皇)14歳、親王宣下 ※後醍醐天皇の母・忠子は下級公卿の出身であったが、義父・亀山法皇に近づき、後醍醐天皇の親王宣下を勝ち取った。 ※ちょっとやらしい。 |
11/21 | 乾元(けんげん)に改元 ※後二条天皇即位に伴う |
— | 幕府の調停により、室町院領が持明院統・大覚寺統に折半される。 ※後宇多上皇(第91代、大覚寺統)が宗尊親王娘の瑞子を子にして相続していた「室町院領」を横領。 ※持明院統が幕府に訴え、幕府の調停により折半に。 ※なお、莫大な皇室領(荘園)のうち、「長講堂領」は持明院統、「八条院領」は大覚寺統が管轄。荘園の相続が両派の争いの一因でもあった。 |
— | 幕府が諸国の一向衆徒を禁圧 |
(※1)北条貞時、出家!
あー、もうめんどくせぇ。
持明院統と大覚寺統の争いも面倒クセェし、
徳政令にぐちゃぐちゃ文句言われるのも面倒くクセェ。
酒でも飲んで憂さ晴らししてぇーなー。
あ、まだ実権は手放したわけではないぞ。
連署(No.2)を任されました。
父の代、北条時宗ー北条政村は上手く行っていきましたよね、、、
え?お前は父が死んだ時(1284年)、次の執権になろうと鎌倉に出てこようとしたけど、三河国で止められたんじゃなかったっけ?
そして、お前は前・連署の大佛宣時派であろう?
え、えええぇ。
私がなぜ出家したのかは私のみぞ知る。
①ハレー彗星を凶兆と考えた。
②娘が死んでやる気をなくした。
③連署の大佛宣時を下ろすため。
④その他
どーれだ?
こんなのは教科書いくら読んでもわからない。
(そもそも教科書には載っていない。載ったとしても改革派の貞時を伝統を重んじる時村が諌めた、などと書かれるであろう。)