こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期㉓:1306-8年」です。
1308年、後二条天皇が23歳(数え年24)の若さで亡くなります。
持明院統と大覚寺統、それぞれ10年ずつ天皇になろう、という約束もあったようですが、
在位7年という短さでの逝去でした。
いずれにしても次の天皇は持明院統から花園天皇(11)が即位します。
問題は皇太子です。
後二条天皇には守邦親王という皇子がいましたが、当時7歳。
ここで幼帝を嫌う動きがあったため、20歳の尊治親王(後二条天皇の弟)が「1代限り」という前提で皇太子となりました。
この決定が幕府をひっくり返す要因となるとは思ってもいなかったでしょうか。
嘉元4年/徳治元年(1306年)年表
12/14 | 徳治に改元 ※天変による |
徳治2年(1307年)年表
1/7 | 元・2代皇帝テムル(41)死去 ※晩年は酒に溺れて体調を崩していた。 |
– | 北条貞時、長崎円喜を内管領・侍所所司に任命 ※北条宗方(「嘉元の乱」で誅殺された)が担っていた。 ※息子・高時の補佐役として長崎円喜、安達時顕(泰盛の息子)を登用した。 ※長崎円喜は平頼綱の縁戚でもある。 |
徳治3年/延慶元年(1308年)年表
8/10 | 守邦親王、父に代わって第9代征夷大将軍就任 ※鎌倉でのいざこざを避けて辞任。 ※守邦親王、当時まだ7歳。 |
8/25 | 後二条天皇(23)、逝去(※1) ※1301年から在位7年。大覚寺統。 ※息子の邦良親王はまだ8歳。 ※故・亀山院が晩年に授かった恒明親王もまだ5歳。 |
8/26 | 花園天皇(11)、践祚 ※持明院統。伏見院の息子、後伏見院の弟。 ※稀に見る好学の君主。 ※皇太子に尊治親王(20:のちの後醍醐天皇)が立てられる。 ※幼帝(邦良親王)が即位する可能性を避けた。 |
8/- | 貞時家臣・中原政連、貞時の酒量を嘆き、政務への再登板を願う ※内管領・長崎円喜に貞時の酒量を諌めて政務に復帰させて欲しい旨の文書を送る。 ※結局、この文書は貞時の手に渡らず。 ※この26年後、中原政連の子、紀親連が新田義貞挙兵の引き金を引くことになる…。 |
10/9 | 延慶(えんきょう/えんけい)に改元 ※花園天皇即位による |
(※1)後二条天皇(23)死去→尊治親王(20)、立太子。
ふふふふふ…
天皇になれるような身ではなかったけど、
まさか兄者が死ぬとは。
こんな運がめぐってくるとはな。
そっかー。尊治くんが皇太子かー。
でもね、僕から見ると、尊治くん、どうも怪しいんだよねー。
勉強にしても解釈が自己流っていうか。
大丈夫かなー。皇太子になんかしちゃって。
父が晩年に授かった恒明親王だけは皇太子にしたくなかったんですよ。
そうすれば、今後、大覚寺統は私ではなく恒明親王の系統にいっちゃうでしょ?
とはいえ、まだ8歳の邦良にすると、亀山院の遺言に従わなかったと言われそうだし…
とりあえず中継ぎとして尊治にしたのよ。
そうすれば、今後、大覚寺統は私ではなく恒明親王の系統にいっちゃうでしょ?
とはいえ、まだ8歳の邦良にすると、亀山院の遺言に従わなかったと言われそうだし…
とりあえず中継ぎとして尊治にしたのよ。
兄貴の息子(邦良:8)も、爺やが晩年につくった恒明(5)も邪魔。
私の家系の方が天皇に相応しい、と思えてきたよー。
私の家系の方が天皇に相応しい、と思えてきたよー。
すごくわかりにくいので整理します。
1308年時点で、
故・亀山院の息子が、「後宇多上皇(40)」と、「恒明親王(5)」。
後宇多上皇の息子が、「故・後二条天皇(享年23)」と「尊治親王(20)」。
故・後二条天皇の息子が、「邦良親王(8)」。
後醍醐天皇にとっては、恒明親王と邦良親王がライバルでもあったんですねー。
1308年時点で、
故・亀山院の息子が、「後宇多上皇(40)」と、「恒明親王(5)」。
後宇多上皇の息子が、「故・後二条天皇(享年23)」と「尊治親王(20)」。
故・後二条天皇の息子が、「邦良親王(8)」。
後醍醐天皇にとっては、恒明親王と邦良親王がライバルでもあったんですねー。
うぃー。
私は今日も酒浸りー。
私は今日も酒浸りー。