こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期㉝:1332年」です。
承久の乱における後鳥羽上皇の例にならい、後醍醐天皇は「幕府への謀反人」として、隠岐島(島根県)に流されました。
これで倒幕運動は下火になるのかと思いきや、生け捕りを逃れた護良親王、そして楠木正成が奮戦します。
(持明院)元徳4年/正慶元年(1332年)年表
(大覚寺)元弘2年(1332年)年表
3/7 | 後醍醐天皇、隠岐島に流される ※尊良親王は土佐に、宗良親王は讃岐に流される。 ※世尊寺行房、阿野廉子、千種忠顕らが天皇に付き従い隠岐へ。 ※なお、道中の警護は鎌倉幕府相伴衆:近江国の佐々木道誉が行った。 |
4/3 | 楠木正成、住吉・天王寺で挙兵 ※大阪市住吉区、天王寺区。 |
4/28 | 正慶(しょうきょう)に改元 ※光厳天皇即位に伴い。 |
5/21 | 六波羅軍と、楠木正成軍の戦い ※渡部橋にて。正成軍の勝利。 ※そのため正成征討に宇都宮公綱に白羽の矢が立つ。 |
6/- | 護良(もりよし)親王、統幕の令旨を多数発給 ※後醍醐が不在の中、護良親王が逃亡を続けながらも倒幕運動の中心となった。 ※後醍醐に代わって叙任権を行使していた。 |
7/19 | 楠木正成軍と宇都宮公綱軍、天王寺でにらみ合い ※正成、「宇都宮はすでに坂東一の弓取りなり」と言い、天王寺を明け渡す。 ※しかし、宇都宮は小勢であったため、再び兵を出してきた正成軍の大量の松明を見て、京都へ帰陣。 |
9/20 | 鎌倉幕府、畿内に大軍を差し向ける ※戦いは翌年まで続く。 |
11/- | 護良親王、吉野で挙兵 ※追手を逃れて吉野へ。さらに「倒幕」の令旨を発給し続ける。 ※令旨は畿内にとどまらず全国へ。 |
12/- | 楠木正成、紀伊で挙兵、赤坂城を奪い返す ※4月という説もあり ※芥川(現:高槻市)近辺まで進出するが、今度は宇都宮公綱・赤松則村の軍に追い返される。 |
しょぼーん
父上、しばらく私におまかせを!
私もひと暴れします。
でも、宇都宮公綱とは戦いませんよ。
そりゃ東国一の弓取りと戦えば損失が激しすぎますから。
さらに私の配下には、紀氏、清原氏といった死をも恐れない強い武士団がいるんじゃ。
えーい、早く護良親王と楠木正成をひっとらえろー!
護良の隠れそうなとこ、ちゃんと全部探したかー?
1度探したところは2度探さないだろうと思って、1度彼らが漁った経典の中に入り難を逃れました。
賢いでしょ?
戦いはこれからですっ!
ちなみにこの頃、私が建てた元は11年間の間に7人の皇帝が代わるなどの政争が生じておりました。
ええ、もちろん日本に攻め込もうなんて余裕はどこにもありませんよ。