こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期㉞:1333年1-3月」です。
1月、護良親王の檄に応えて、播磨の赤松円心が挙兵しました。
閏2月には名和長年の手引によって、後醍醐天皇が隠岐を脱出し、
鳥取県の「船上山」(せんじょうさん)に籠城して幕府軍と戦います。
さらに3月(当日に討ち死にしたとはいえ)、九州で菊池武時が鎮西探題に反旗を翻しました。
彼らの戦況を各地の御家人たちが見定めます。
(持明院統)正慶2年(1333年)年表
(大覚寺統)元弘3年(1333年)年表
1/19 | 楠木正成、四天王寺で六波羅軍を撃破 ※畿内の随所で幕府軍と戦闘。こののち5ヶ月に及ぶ千早城での籠城開始。 |
1/21 | 播磨国の赤松円心(則村)、挙兵 ※幕府軍として戦っていたが、護良親王を令旨を受けて後醍醐天皇方につく。 ※三男の赤松則祐が護良親王の従者であったのも大きい。 ※楠木正成とは姻戚関係にあたり、ビジネス上でもつながっていた可能性がある。 ※赤松家は播磨国佐用荘赤松村が本拠地。 |
2/18 | 幕府軍の攻撃で吉野陥落 ※護良親王は一時、自害を考えるほどだったが、村上義光が身代わりとなり逃れる。 |
2/- | 千早城の戦い ※幕府軍は吉野を落とした勢いで正成の籠もる千早城を攻めるが大敗し、再び宇都宮公綱が召集される。 ※しかし、宇都宮公綱も攻略には至らず、膠着状態となる。 ※新田義貞は幕府軍として参加していたが、3月、病を理由に無断帰国する。 ※このとき、楠木正成がとった多勢の相手に対する戦略はひたすら相手の厭戦気分を高めることだった。この手法は1360年、息子の楠木正儀によって再現される。【コチラ】 |
2/26 | 赤松円心、高田城(兵庫県上郡町)を落とす ※西国から京都への通路を塞ぎ、後続の憂いを断ったのちに京都方面へ進撃。 |
閏2/11 | 得能通綱、土居通増ら河野一族、挙兵 ※伊予守護・宇都宮貞宗の府中城を攻略する。 ※攻撃してきた長門探題・北条時直も破る。 ※瀬戸内海の流通を抑える。 |
閏2/24 | 後醍醐天皇、隠岐島脱出 ※名和長年の手引により船上山(鳥取県東伯郡)へ ※名和長年は伯耆国の名和荘(鳥取県大山町)あたりを本拠とし、海運を利用した商業に携わり、富を蓄えていた。 |
閏2/29 | 船上山の戦い ※名和長年が後醍醐天皇を奉じて挙兵。 ※隠岐国守護・佐々木清高が攻撃してきたが、出雲・伯耆の豪族が駆けつけ敗走させる。 ※出雲守護の塩冶高貞も名和長年の奮戦を見て、後醍醐側に寝返る。 ※そのため、3月に入り、幕府は足利高氏、名越高家に出陣を命じた。 |
3/1 | 摩耶山(神戸市灘区)の戦い ※赤松円心、六波羅軍と交戦して大勝。 ※近年、赤松円心や楠木正成らはもともとは幕府の御家人であったという説が有力となっている。彼らが六波羅軍の主力である騎兵の動きを封じた戦いを行ったのは、彼らがその弱点を熟知していたためと考えられる。 |
3/11 | 菊池武時、鎮西探題に出仕するも遅刻を咎められて口論に。 ※鎮西探題は北条英時。 ※元寇以来、鎮西探題による支配が強化されており、九州の御家人たちは不満が募っていた。 ※そこへ護良親王の令旨が届いた。 |
3/12 | 赤松円心、京都に攻め込むも敗北 ※山崎に逃れる。 ※幕府軍は追撃軍を派遣するが、円心はゲリラ的戦法でこれを撃退する。 ※後醍醐天皇は千種忠顕を総大将として援軍を派遣する。 |
3/13 | 菊池武時、鎮西探題を急襲するも、討死。 ※かねてから共闘を約束していた少弐貞経、大友貞宗にも呼びかけたが両者とも時期尚早として動かず。 ※このときの少弐家、大友家に対するの恨みが、その後、菊池家が徹底して南朝方として戦い続けた原動力とも言われる。 |
3/28 | 比叡山、蜂起するも六波羅軍に敗れる |
3/- | 足利高氏、名越高家、六波羅軍の援軍として向かう ※このとき、高氏は息子と妻を幕府の人質にされている。 ※翌月16日に高氏、19日に高家が京都到着。 |
一番手は私です。
ちなみに、護良親王様に息子がお世話になっております。
おおーーっ、円心どの、心強い。
幕府軍対策はやっぱり騎兵対策ですなぁ。
よし、この勢いで幕府を倒すんじゃー
天皇様は私が守ります。
九州でもひと暴れしてみますよっ、
少弐殿、大友殿、さぁ、一緒に…
って、あれ??俺だけ??
菊池家と少弐・大友家の争いは紆余曲折を経ながらも1359年筑後川の戦いまで続くことになります。【コチラ:1359年】
さーて、どっちが優勢になるんだろうなー??