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☞【南北朝時代第2期㉘:1359年】『筑後川の戦い!九州における南朝優位確定!』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「室町時代第2期㉘:1359年」です。

 

尊氏死後、九州では北朝(少弐頼尚、大友氏時ら)と南朝(懐良親王、菊池武光ら)による「筑後川の戦い」が行われました。

日本三大合戦とも言われる大規模な戦闘で、南朝が勝利し、以後、九州は南朝優勢が続きます。

本州では、将軍・足利義詮、執事・細川清氏による畿内の南朝掃討作戦が計画され、関東から畠山国清・河越直重らが参じます。

しかし、仁木頼章が死んだことで、彼らの矛先は南朝だけでなく仁木義長に向けられることにも。。。

延文4年/正平14年(1359年)年表

2/足利基氏(初代鎌倉公方)、東国武家に対して軍勢催促状を送達する

※新将軍足利義詮による畿内の南朝掃討作戦への加勢が名目。
4/少弐頼尚が北朝方に帰服する(@九州)
8/6筑後川の戦い

南朝方:懐良親王、菊池武光赤星武貫宇都宮貞久草野永幸ら4万人
北朝方:少弐頼尚少弐直資父子、大友氏時城井冬綱ら6万人

この戦いに敗れた北朝方は大宰府に逃れ、九州はこの後10年ほど南朝の支配下に入ることとなった。

※「関ヶ原の戦い」、「川中島の戦い」とともに「日本三大合戦」に数えられる。
10/5河越直重、関東勢20万余を率いて上洛

※畠山国清(関東執事)に従う形で。
※太平記によると、直重は粋で華美な服装や奢侈な振る舞いを好む「ばさら大名」の1人であり、濃紫・薄紅など様々な色に染めた30頭の馬を引き連れた入京で、京の人々の度肝を抜いたという。
10/13仁木頼章死去

【仁木頼章】(1299-1359)
三河国額田郡(現:岡崎市)出身。足利一門であり、古くから尊氏に付き従い転戦。高一族以外で初めて足利家執事となる。一時期は弟の義長とともに9カ国の守護を務めるほどであった。61歳で死去。

※仁木頼章の死により弟の義長は立場が弱くなる。義長に反感を抱いていた細川清氏は、これを好機と踏み、翌年、土岐頼康、畠山国清らと結託して義長を排斥しようと試みる。
11/6畠山国清(関東執事)、上洛

※足利基氏による軍勢催促を受けて、尾張国熱田で7日待つがなかなか東国勢は集まらず、最終的に7・8騎だけで入京。

※この件は国清が東国武士を統率できていない実態を表すとされている。
11/9河越直重の旅館に群盗が押し入る

※散々戦った挙げ句に、名馬や金銀づくりの太刀など多くのものが奪われた。あまりに豪勢な行列を見せたために群盗に目をつけられた。
12/27畠山国清(関東執事)、南朝勢と合戦開始(@河内国四条村)

※翌年、本格化。
12/後村上天皇、観心寺(大阪府河内長野市)に行宮を移す

※翌年9月には住吉まで北上。
少弐頼尚
南朝に下っていたことなんて方便よ。我が少弐家こそ九州を治めるのに相応しい!そして父を殺した菊池だけは絶対に許さん!今こそ白黒つけてやる!

【少弐頼尚】(1294-1372)

少弐家は鎌倉時代より九州北部に勢力を持つ武家で、少弐資能は元寇で大活躍(【コチラ】【コチラ】)。
少弐頼尚は建武の乱で尊氏方につき奮闘し、筑前・豊前・対馬・肥後国の守護となるが、尊氏が新たに九州探題を設置し、そのトップに一色範氏(三河出身)を据えたことで、観応の擾乱では足利直冬方についた【コチラ】

直冬失脚後は、父を菊池氏に殺害された怨念を捨てて南朝に下り、一色範氏と交戦。一色範氏を失脚させた後は、再び北朝に帰服して菊池氏ら南朝と敵対し、筑後川の戦いを迎える。

菊池武光
お前らこそなんじゃ!こっちだってお前らに父を殺されてるじゃろ!白黒つけてやるってのはこっちのセリフじゃ!!

<南北朝時代における菊池家>

【12代当主】
菊池武時(1292-1333)
1333年、北条氏の鎮西探題に歯向かうも、少弐貞経、大友貞宗の協力が得られず逆に攻められて憤死。

【13代当主】
菊池武重(1307-1338)
武時長男。後醍醐天皇の命を受け、各地で足利尊氏と戦うも1338年、死没。
ちなみに1335年に少弐頼尚の留守を襲って少弐貞経を殺害し、1336年の多々良浜の戦いで足利尊氏と戦ったのは武重の弟・菊池武敏。その武敏も1341年、死没。

【14代当主】
★菊池武士(1321-1401)
武時12男。嫡流であったために家督を継ぐが、貧弱だったため、追放される。しかし、そのせいか長寿を全うする。

【15代当主】
菊池武光(1319-1373)
武時9男。貧弱だった弟の武士に代わって当主に。「筑後川の戦い」含め、数々の北朝勢との争いを制し、菊池家の最盛期を築き上げた名将として知られる。

河越直重
おうおう、久々の登場だな。まあ、なんてんだ、我が河越家の力を西国武者どもに見せつけたろかい。え、泥棒に気をつけろだと?そんなん知るかい!

【河越直重】(?-?)

平安時代より400年続く武蔵国の武士団の棟梁の家系であり、「川越市」の地名と深く関係。
直重は武蔵野合戦(1352年)で尊氏方の先鋒をつとめ、新田軍を撃破。その後も、笛吹峠の戦で勝利し、相模国守護に任命された。尊氏が京都に戻った際は畠山国清とともに関東を任され、足利基氏を支えた。【コチラも】

畠山国清
わ、わしは、尊氏さまより関東執事を任されるほどの人物なんじゃが、東国武士にはこんなに人望なかったんだ…。まあええわい、言う事聞かない東国武士など。

【畠山国清】(?-1362)

足利家支流。和泉国守護、紀伊国守護として、南朝との戦いの最前線で活躍。観応の擾乱では直義方として活動するも、のちに尊氏方となり武蔵野合戦(1352-)で直義方と対決。それらの功が認められ、関東執事に任命され、足利基氏(鎌倉公方)のサポートを依頼された。

仁木義長
兄者、死んじまったかー。しゃあねえなー、俺は狙われるかも知らねえが、来る奴は殺るしかねぇ。

【仁木義長】(1300-1376)

岡崎市(三河国額田郡仁木郷)出身。足利家臣団として転戦。多々良浜の戦いでは全身血まみれになりながら戦ったとも。観応の擾乱では兄・仁木頼章とともに尊氏方として戦い、その功で頼章は高師直死後の執事に任命される。しかし、義長はそれにより増長し、細川清氏の敷地に勝手に家を建てようとしたり(コチラ:1355年)土岐頼康とあわや合戦になるほどの口論をする(コチラ:1358年)などトラブルメーカーとして諸将の反感を買っていた。

細川清氏
今や足利家執事になった。今こそ憎き義長をやってやろうか。義長も武闘派を自認してるようだが、俺の方が強いだろ。

【細川清氏】(?-1362)

南北朝時代きっての武闘派。観応の擾乱では一貫して尊氏派として戦い、矢面に立って、ほぼ必ず負傷する。それらの功績が認められて義詮時代に執事に任命される。仁木義長とはともに岡崎市出身であるものの、伊賀国守護の座をめぐって確執が生じたり、敷地に勝手に家を建てられそうになったりして犬猿の仲。

懐良親王
筑後川の戦いは、私も負傷するほどの大激戦だったが、これで九州における南朝優位が確定した。ここまで来るのに時間はかかったが、まだまだ諦めんぞ!

【懐良親王】(1329-1381)

後醍醐天皇皇子。建武の新政崩壊後、後醍醐天皇の戦略により九州へ派遣される。1341年に九州に入り、菊池家の庇護を受けて、徐々に勢力を拡大。一時期は北朝(一色範氏ら)・南朝(懐良親王)・足利直冬(+少弐頼尚)の三つ巴の争いとなったが、直冬失脚により、北朝(寝返った少弐頼尚)と南朝の争いとなり、筑後川の戦いを迎えた。