こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第2期㉚:1361年」です。
関西では細川清氏が、関東では畠山国清がそれぞれ失脚します。
前年の仁木義長とあわせて、南朝掃討作戦の主要メンバーがみな失脚するという波乱がおきました。
細川清氏は南朝に下り、第7次京都争奪戦に加わりました。
延文6年(→康安元年)/正平16年(1361年) 年表
2/ | 仁木義長、南朝に投降 ※失脚した仁木義長はこれまでの宿敵・石塔頼房と連合して近江国甲賀で佐々木六角氏頼や土岐頼康の軍勢と対決するが、劣勢となり南朝に投降。 ※「悪行においては天下第一の僻者ぞ」と酷評していた南朝もこの投降を受け入れる。 |
3/29 | 康安に改元(北朝) ※疫病流行などによる ※翌年にも疫病、天変地異などを理由に改元していることから相当荒れていたことが推測される |
9/ | 南朝、観心寺(現:河内長野市)から住吉神社(津守国量の館、現:大阪市住吉区)に遷幸 ※仁木義長排斥事件後、南朝が息を吹き返すように各地で蜂起。これを恐れた和泉守護細川業氏(細川清氏弟、顕氏の養子)が戦わずして撤退したためこの地域が南朝の支配下となっていた。 【津守国量(つもりくにかず)】(1338-1402) 代々、住吉神社の神職。住吉神社の歴史は古く、古事記や日本書紀にも登場するほど由緒正しい。 |
9/23 | 細川清氏失脚 ※足利義詮、新熊野社にて細川清氏討伐の軍勢を徴集。 ※佐々木道誉と細川清氏は度々衝突することがあり、今回も佐々木道誉による讒言による冤罪という説が有力。 (例:佐々木道誉は娘婿の斯波氏頼を加賀守護にしようとしたが、細川清氏がこれを阻止して富樫昌家にしたことなど) ※細川清氏は若狭へ落ち延びる。 ※細川清氏失脚に伴い但馬守護には仁木頼勝(仁木義長弟)が但馬守護となる。また、丹波守護・仁木義尹(仁木頼章息子)は若狭へ逃亡した清氏を追撃する。 ♨細川清氏失脚を1360年と書いているものもありますが、ここでは前後関係から1361年説を採用して話を進めておりますm(_ _)m。(違ってたらごめんなさい) |
10/25 | 細川清氏敗北、南朝に投降 ※清氏は無実を訴えるものの、10月25日には斯波高経(越前守護)の軍に敗れ、近江国東坂本(大津市)から宇治路を経由して大和国吉野へ向かい、南朝に降った。 ※この時、わずか50騎ほどで三条公忠から「哀れむべし」と同情されている。 ※細川清氏失脚に伴い、一族の長老である斯波高経の影響力が増すことになるが、これがまた後日、佐々木道誉との争いの種となる。 |
11/ | 足利基氏、東国武家に畠山国清退治の軍勢催促状を発給 ※成長した足利基氏は育ての親・上杉憲顕復権のチャンスを狙っていた ※畠山国清は前年の西国遠征で無断で帰国した東国武士の所領を没収したところ、東国武家が一味神水(簡単に言うと団結)して足利基氏に訴え、基氏もこれを利用して畠山国清を罷免。 ※国清討伐は翌年3月に本格化 |
12/8 | 第4次京都攻防戦 ※南朝軍:細川清氏、楠木正儀、石塔頼房ら。 ※足利義詮は南朝の軍勢を見て戦わずして近江へ退却。後光厳天皇もこれに続く。 |
12/27 | 南朝軍、京都退却 ※近江国から幕府軍が攻撃することを聞いた南朝軍は、鴨川原で迎え撃つも防ぎきれずに撤退(全く戦わなかったわけではない)。 ※京都は奪うのは容易だが守るのは難しい。北陸から近江を通る補給路を塞いでしまえばたちまち干上がる。 |
【石塔頼房】(1321-1413)
父・義房が陸奥の政変で失脚したことから観応の擾乱では直義派として戦い、尊氏や義詮を何度も追い詰めた。
【伊勢志摩をめぐる石塔頼房と仁木義長の争い】
1349年5月 仁木義長は伊勢志摩守護を没収され、石塔頼房が後任となる。
1351年7月29日、観応の擾乱第一幕終結後、尊氏派諸将が(南朝との戦いのため?)次々と京都を脱出する中、仁木義長は伊勢国に攻め込み石塔頼房と合戦。この合戦で義長は弟の義氏を失う。
1351年12月、直義失脚により仁木義長は宿敵・石塔頼房から伊勢志摩を奪回。その後も戦を繰り広げる。
1360年7月、仁木義長失脚により伊勢志摩守護は土岐頼康のものへ。
【上杉憲顕】(1306-1368)
足利尊氏とは従兄弟の関係。多々良浜の戦い(1336)にも参戦。その後、関東で義詮および基氏をサポートする役割を果たすとともに、東国における南朝の反攻を防いだことで、尊氏・直義の強い信頼を得た。しかし、観応の擾乱において直義派として尊氏と対決したことで、直義死後は失脚していた。
<南朝による4度の京都奪取>
【第4次京都攻防戦】(1352.閏2)
楠木正儀、和田正武、千種顕経、北畠顕能らにより足利義詮を近江へ追いやる。また北朝の皇族を八幡へ連行。しかし、義詮の反攻により3月に京都を奪い返され、5月には大和へ敗走。(南朝1度目の京都奪還>
【第5次京都攻防戦】(1353.6)
楠木正儀・石塔頼房・吉良満貞・山名時氏らとともに京都奪還。しかし、占領は長くは続かず7月に撤退。<南朝2度目の京都奪還>
【第6次京都攻防戦】(1355.1-3)
足利直冬ら旧直義軍が主力。尊氏と入京した直冬の戦闘、楠木正儀・山名時氏軍vs足利義詮軍の戦闘などを経て、直冬軍撤退、尊氏・義詮入京で幕を閉じる。<南朝3度目の京都奪還>
【第7次京都攻防戦】(1361.12)
楠木正儀、細川清氏、石塔頼房らで京都奪還するも、すぐに1ヶ月もしないうちに退散。<南朝4度目の京都奪還>