こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「1945年1-3月」です。
サイパン陥落により本土空襲が本格的になりました。
近衛文麿は「近衛上奏文」で共産革命の脅威とともに即時停戦を具申しますが、実現されませんでした。
一方、2月には米英ソで「ヤルタ会談」が行われました。
ここで戦後の方針が決められます。
大陸打通作戦における対応への鈍さからか、蒋介石はヤルタ会談には呼ばれず、
その腹いせ(?)で、日中の間で「繆斌工作」が水面下で行われました。
日本の反対で実現しませんでしたが、もしかすると、これが日中戦争を終結させて状況を改善させる最後のチャンスだったのかも知れません。
以下、「総力戦のなかの日本政治」、「日本は誰と戦ったのか」などを参考にさせて頂きました。
「硫黄島」での奮戦もお忘れなく。
【年表】1945年1-3月
1945年 | アジア | 太平洋 | その他 |
---|---|---|---|
1月 | ビルマルート再開 | 米軍、ルソン島上陸(1/9) | 大阪空襲(1/3) 天皇、重臣たちの意見具申を求める(1/6) ソ連軍、ドイツ本土侵攻(1/12) 三河地震(1/13) ・報道規制 |
2月 | 硫黄島の戦い(2/19~)(※3) ・日米の中間地点(小笠原諸島)に飛行場確保を目指す ・栗林忠道 | ヤルタ会談(2/4)(※1) 近衛上奏文(2/14)(※2) ・共産革命を危惧 皇居にも爆弾・焼夷弾(2/25) | |
3月 | 繆斌工作会議(3/21)(※4) ・閣内不一致 ・小磯内閣総辞職へ(4/5) | 硫黄島玉砕(3/26) ・以後、米軍航空基地 | 東京空襲激化(3/10~) ・夜間に低高度で侵入 ・市街地に焼夷弾 ・じゅうたん爆撃 名古屋空襲激化(3/12~) 大阪空襲激化(3/13~) 決戦教育措置要綱(3/18) ・学徒動員体制の徹底 ・国民勤労体制の刷新 ・防空体制の強化 ・簡素生活の徹底 ・食料配給の改善整備 ・空き地を利用しての食糧生産 など 国民義勇隊組織(3/23) ・65歳以上男子、45歳以下女子 ・5月には大政翼賛会、大日本婦人会なども統合 米軍、慶良間諸島上陸(3/26) ・4/1には沖縄本島へ ・第9師団(強い)は台湾に転用されており戦えず |
(※1)ヤルタ会談
1945年2月、ルーズベルト(米)、チャーチル(英)、スターリン(ソ)がクリミア半島のヤルタで会談しました。
合意された「議定書」
・世界機構についての会議実施(のちの国際連合)
・ドイツの分割占領
・ドイツに対する賠償
・戦争犯罪人の問題
・東欧、イランなどをめぐる問題など→東欧にソ連の傀儡政権が置かれることに(!)
「議定書以外」
・ソ連の対日参戦に関する協定…ドイツ降伏の2,3ヶ月後にソ連が以下の条件下で参戦。
(日本にとってはこれが一番重要かも知れません。なんせソ連の対日参戦までルーズベルトは日本の降伏を認めなかったのですから。ルーズベルトは国際連合創設で名を残すべくスターリンの歓心を買うのに必死でしたし…。【コチラも】)
①外蒙古の現状維持
②日露戦争により日本に付与したロシアの旧利権回復、すなわち南樺太ならびに、それと隣接する一切の島嶼のソ連への返還、大連・旅順の租借権返還、満州・中東鉄道を中ソ合弁で運営、中国による満州の主権保有、千島列島のソ連への引き渡し
ほか、ダンバートン・オークス会議で棚上げとなっていた、「安全保障理事会の表決方式」、「ソ連の共和国問題」、「信託統治問題」などの懸案事項が検討されました。
(→4月にサンフランシスコで行われた会議で正式提案、→6月26日に国際連合憲章採択。)
ブッシュ(子)大統領「ヤルタ体制は間違っていた」
2015年、バルト三国のラトビア(ラトビアもソ連に渡されてしまいました)を訪れた時のセリフです。
ナチズムをつぶしたところまでは良かった。しかし、
「東欧、バルト三国まで解放すべきだったという点でヤルタは間違いだった」
…その後、50年間、ヨーロッパの東半分を解放する戦いが続きましたね。
(アジアではいまだに共産主義が跋扈している)
【なぜヤルタ会談がソ連の思うままになったのか】
1.スターリンが善人だというルーズベルトの思い込み
2.ルーズベルトの健康問題(職務遂行能力はなかった)
3.ソ連の浸透工作(ソ連こそ大戦の決定的ファクターだからあらゆる支援、努力をすべき、と吹き込まれていた)
4.工作員の暗躍(アルジャー・ヒスら)
5.議会を無視したルーズベルトの密室外交
(※2)近衛上奏文
1945年1月6日、天皇は木戸幸一に戦局への対応について重臣たちに意見を募るよう話されました。
そして、2月に入り、重臣たちが個別に天皇を訪れて所信を述べるようになりました。
(平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、若槻禮次郎、牧野伸顕、岡田啓介、東条英機ら)
この中でも有名なのが「近衛上奏文」です。
要約しますと、
・敗戦は必至。
・米英は国体の変革は求めていないが、最も憂うべきは敗戦に伴って生じるかも知れない共産革命。
(生活の窮乏、労働者の発言権増大、米英に対する敵愾心など、共産革命の条件が整っている)
・よって速やかに戦争終結すべき。
・そのためにも軍部をなんとか納得させねば。
これに対して天皇の答えは、
・もう一度戦果をあげてからでないと難しいだろう
でした。
(軍部が納得しないであろうという意味か、英米が辞めないであろう、という意味かは意見が分かれる)
ちなみに、近衛は首相時代にゾルゲ事件を受けておりました。
それにも関わらず、小磯内閣が対ソ接近の動きをしていたことが、共産革命を警戒した理由の1つだったとも言われております。
だって密約ができているんですもの。
(※3)硫黄島の戦い
日本にとってもアメリカにとっても硫黄島(小笠原諸島)は重要拠点でした。
日本軍は島全体を要塞化して奮戦。
最終的には「玉砕」してしまいますが、アメリカ軍に大きな損失を与えました。
映画化もされましたね(↓)。
(※4)繆斌工作(みょうひん こうさく)
小磯内閣は汪兆銘政府の要人でありながら、蒋介石との接触に成功したと言われる繆斌(みょうひん)との和平工作を行っておりました。
しかし、この工作をめぐって内閣が分裂します。
賛成:小磯国昭(首相)
反対:重光葵(外相)、杉山元(陸相)
繆斌の主張としましては、「南京政府を解消し、蒋介石政府の承認する留守府を設け、同時に日本と蒋介石は相互に停戦・撤兵交渉に入る」というものでした。
また、中国からの撤兵はあったものの、「満州国承認」など決して悪い条件ではなかったはず…
しかし、日本側が繆斌を「正規の交渉人ではない」という理由などで疑っており、結局、実現しませんでした。
(一方、「正規の交渉人」説もあります。その証拠の1つとして繆斌の訪日時は繆斌の予言通り東京空襲がありませんでした。)
蒋介石がヤルタ会談に呼ばれなかったために腹いせで行った説もあります。
戦後、繆斌は「日本に通じた」という理由で真っ先に処刑されますが、蒋介石による「口封じ」のため、という説があります。
(まだ戦争中なのに抜けがけして勝手に和平しようとしたのがバレたら、立場ヤバいですものね。)
もし実現していたらどうなっていたのか、非常に興味深いです。
まとめ
2月、ヤルタ会談が行われる。(米英ソ)
硫黄島の戦い。(2/19~3/26)
3月、繆斌工作。
→閣内不一致、小磯内閣総辞職(4/5)
繆斌工作は実現せず。
大都市への大空襲激化。
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