こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「張作霖はいかにして成り上がったのか」についてです。
以下、『満州建国の真実』第2章:「張作霖の登場」を参考にさせて頂きました。(前回まではコチラ)
【年表】張作霖の成り上がりストーリー(1875年~1912年)
1875 | 出生(※1) |
1889 | 実父と死別(※2) |
1896 | 匪賊に身を投じる・・・(※3) |
1902 | 体制側に(※4) |
1903 | 傭兵隊長に昇格、候老疙疸を殺害 |
1904 | 日露戦争で銃殺寸前(※5) |
1907 | 馬賊の大物・杜立山を殺害(※6) |
1912 | 張榕ら革命派を殺害、満州での辛亥革命をつぶす(※7) |
(※1)出生
祖父の代に河北省あたりから満州へ流入した貧しい漢民族といわれております。
(満州人ではありません。)
(※2)実父と死別
父は賭博を巡るトラブルで殺されたといわれます。
(どん底の家庭生活が想像できます・・・)
(※3)匪賊に身を投じる・・・
21歳ごろ、匪賊に身を投じます。
(匪賊=ギャング、ヤクザ)
しかし、下っ端仕事に嫌気が差し、独立して「用心棒屋」を始めます。
用心棒代として1ヘクタール当たり銀一両を徴収しました。
この収入で子分を雇い、
契約しない富裕家を襲撃しました(!)。
富裕家たちはやむなく張作霖と契約しますが、契約者が増えるに従って子分も増やしました。
そうなると襲撃に凄みが出て、さらに契約するものが増えました。
(ちなみに官憲は「賄賂」で籠絡!)。
敵は同業者で、「シマ争い」に明け暮れておりました。
(※4)体制側に
転帰が訪れたのが27歳の時。
満州はそのように治安が悪かったのですが、奉天将軍ゾウキが「毒を持って毒を制す」べく、満州各地の武装勢力に帰順を呼びかけました。
張作霖はこれに応じて、体制側に入ります。
そして、清国政府の傭兵として、帰順に応じない馬賊、匪賊、各種民間武装勢力を討伐します。
翌年には、戦功により「傭兵隊長」へ昇格しました。
(それまで部下は50人程度でしたが、これにより部下は485人に。)
なお、張作霖をうらやみ帰順しようとしたものもおりました。
候老疙疽はその1人で、張作霖に勧誘されたので配下40人あまりを率いて張作霖を訪ねます。
しかし、
張作霖は隙を見て射殺(!)。
候老疙疽の配下は、そっくりそのまま張作霖が吸収します。
上司からは連発銃200丁を褒美にもらいました。
このようにしてますます力を得るのです。
(※5)日露戦争で銃殺寸前
間もなく日露戦争勃発。
張作霖はロシアの勝利を信じてロシアのスパイとなっておりました。
そこを日本陸軍が逮捕します。
銃殺されかけますが、軍政官井戸川辰三が「張作霖には見所がある(生かしどころがあるのではないか)」というので満州軍参謀田中義一(のちの首相)に助命を嘆願します。
児玉源太郎満州軍総参謀長も同意して、命拾いすることができました。
今度は日本側に寝返り、日本のスパイとしてロシア軍情報を日本に伝えます。
(※6)馬賊の大物・杜立山を殺害
日露戦争後、満州の行政機構は総督制となり、袁世凱の腹心・徐世昌が初代総督に就任します。
張作霖は徐の配下となりましたが、ここで馬賊の大物・杜立山を殺害します。
やり方はいつもと一緒。
懇切丁寧に帰順を呼びかけ、祝宴を設けて殺害(!)。
褒美として1万2000両を授与され、部下も1000人以上となります。
(※7)張榕ら革命派を殺害、満州での辛亥革命をつぶす
1911年に清では辛亥革命が勃発します。
この波は満州にも波及します。
革命派・張榕が台頭し、40000人以上が蜂起しました。
総督の依頼を受けて張作霖は奉天城内の警備を担当することになり、張作霖は傭兵隊長から「親衛隊長」に昇格となりました。
1912年1月、「革命派の意向を聞く」として張榕らを招いて祝宴。
こうなると・・・
あとは一緒ですね。
宴会で張榕らを皆殺し(!)。
(そろそろみんな気付け・・・と思いますが・・・)
北京では溥儀が退位して清は滅亡、南京を首都とする中華民国が成立する一方、満州での辛亥革命はこうして挫折し、満州は清でもない、中華民国でもない、独立王国の様相を呈しました。
張作霖37歳。
【追記】張作霖は馬賊ではない。
土着的運輸通信業を営む「馬賊」たちの「仁義」とは
①預かった荷物をつまみ食いせず、同量同質を、次の馬賊へ申し送ること。
②受け持ち輸送区域では、他の略奪者と武力で戦ってでも、荷物を守ること。
③自分の縄張りは武力をもって死守するが、他の馬賊の縄張りは侵さない。
といったものでした。
彼らはお互いのテリトリーを尊重することによって成立していました。
張作霖は全く違います。
(ただ、「賊」であることには変わりないので、馬賊を「伝統的馬賊」、張作霖らを「新興馬賊」と呼ぶ見方もされております。)
※伝統的馬賊たちを「鉄道の時代」に軟着陸させる方法は日本が明治維新で会得しており、日本と伝統的馬賊は日露戦争で共に戦うなど接近を見せる場面もありました。
『満州建国の真実』つづき