こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「張作霖が北京政権を奪取するまで」です。
(前回まではコチラ)
段祺瑞ら「安徽派」と曹錕・呉佩孚ら「直隷派」の間で行なわれた「安直戦争」では直隷派の味方をして安徽派を倒しましたが、今度は直隷派との戦いとなります。
【年表】第1次奉直戦争(1922年4月)~張作霖大総統就任(1926年6月)
1921.5.17 | 日本:原内閣における閣議決定で、張作霖支援決定。 |
1922.4.28 | 第1次奉直戦争(~5.5)(※1) 【奉天派:張作霖+段祺瑞、孫文】 vs 【直隷派:曹錕、呉佩孚】 【→第2次黎元洪体制 with曹錕・呉佩孚】 |
1923.10.10 | 呉佩孚との反目を経て曹錕が大総統に就任(※2) 【曹錕体制】 |
1924.1.20 | 第1次国共合作 |
1924.9.15 | 第2次奉直戦争(~11.3)(※3) 【奉天派:張作霖、馮玉祥(寝返り)、段祺瑞(傀儡)】 vs 【直隷派:曹錕、呉佩孚】 【→段祺瑞体制 with張作霖・馮玉祥】 |
1925.3.12 | 孫文死去 |
1925.11.27 | 郭松齢の反乱(~12.25)(※4) 【張作霖・楊宇霆・呉佩孚・関東軍】 vs 【郭松齢・馮玉祥】 |
1926.4.20 | 段祺瑞退任 (→大総統代行時代) |
1926.7.1 | 蒋介石、北伐開始 |
1927.3.24 | 南京事件(革命軍による外国人襲撃) |
1927.4.6 | 張作霖、ソ連大使館強制捜査(※6) |
1927.6.28 | 張作霖、大総統就任(※5) 【張作霖体制】 |
(※1)第1次奉直戦争
安直戦争の分配を巡り、直隷派と奉天派が対立します。
(このパターンの繰り返しですね)
張作霖は孫文、段祺瑞と結託して曹錕、呉佩孚ら直隷派に挑みますが、敗退します。
なお、日本はこの頃の閣議で
「張作霖をして、日本が満蒙に有する根拠を失脚せざる如く之を援助する」
とし、軍事資金援助を行うことが決定しました。
第1次奉直戦争に勝利した直隷派は、黎元洪を傀儡として大総統に就任させました。
(※2)曹錕vs呉佩孚
しかし、黎元洪が就任したところで治まりません。
今度は曹錕と呉佩孚が主導権争いを始め、曹錕が大総統に就任します。
(呉佩孚の自重もあり、戦争には至りませんでした。)
(※3)第2次奉直戦争
曹錕が大総統に就任しましたが、実際は賄賂や脅迫などで就任したため、支持者は多くありませんでした。
そこへ張作霖がリベンジマッチに挑みます。
直隷派の馮玉祥は寝返り(北京政変)、曹錕は捕らえられ、段祺瑞が傀儡の大総統に就任し、実権は張作霖が握ります。
【馮玉祥】(ふう ぎょくしょう:1882~1948)
軍閥。キリスト教の洗礼も受けていた。直隷派として迎えられていたが第2次奉直戦争の際に、クーデターを起こして曹錕を捕らえ、奉天派の勝利に貢献。また、この時、溥儀を紫禁城から追い出している。
その後は、張作霖と対立。蒋介石とも共闘しては対立するなどして政権を目指す。
(※4)郭松齢の反乱
奉天派内にも派閥争いがありました。楊宇霆と郭松齢です。郭松齢は楊宇霆により失脚させられそうになっており、馮玉祥と手を結んで対抗しようとしていました。
そこへ馮玉祥と張作霖の戦争が起こり、郭松齢は張作霖を見限って馮玉祥と共に戦います。
優勢に進めていましたが、郭松齢の反日的な姿勢を憂慮した日本の横槍により郭松齢は敗北に追いやられました。
(当時は加藤高明内閣。幣原喜重郎外相は不干渉政策を主張しましたが、奉天総領事吉田茂、陸軍中央が張作霖支援を主張しました。)
馮玉祥は「国民軍」を組織して蒋介石の北伐に加わります。
【郭松齢】(かく しょうれい:1883~1925)
有能で開明的。安直戦争、奉直戦争で活躍。好戦的な張作霖についていけなくなり、クーデターを起こす。張作霖を自殺寸前まで追い込み、満州議会も郭松齢を支持したが、関東軍の支援を受けた張作霖に敗北。
【楊宇霆】(よう うてい:1886~1929)
張作霖の腹心。郭松齢と派閥争いを繰り広げる。
(※5)張作霖、大総統就任
その後、段祺瑞は馮玉祥の国民軍に捕らえられ、下野。
3人の大総統代行を挟んで(いずれも張作霖の傀儡)、張作霖が大総統に就任しました。
しかし、蒋介石による北伐は進行、張作霖はソ連大使館強制捜査によりソ連と軋轢を生むなど、必ずしも磐石とは言えませんでした。
(※6)【張作霖のソ連大使館強制捜査】
蒋介石軍の「南京事件」を見た張作霖は中国共産党はソ連と秘密裏に連携していると判断。
官憲をソ連大使館へ乱入させて強制捜査しました。
結果、武器、宣伝ビラ、名簿などを押収。
ソ連が北京政権を倒そうとしている計画を知りました。
また、ソ連大使館内に隠れていた李大釗ら中国共産党員80名以上を逮捕、李大釗らを含む20名以上を処刑しました。
これに対してソ連は激怒。
ソ連大使を本国へ召還し、軍も国境付近に配備し、一触即発の状態となりました。
・・・というようなことがあったのです。
つづきはコチラ。