こんにちは。
今回ご紹介しますのは、『歴史REAL 日本人の起源』(篠田謙一、山田康弘ほか、2018年、洋泉社)です。
日本人は何か?を考えた時に、「日本人の起源」についても知りたくなり、本書を購入しました。
しかし、受験生はこの分野は深入りしてはいけないとつくづく思います。
理由は、難易度に比して出題頻度が極めて少ないからです(!)。
結局、高校生レベルでは「日本人の起源は今のところはまだ確実にはわからない」ということがわかれば良いと思いますし、だからこそ、研究者は研究する価値がある!と思います。
以下、読書メモです。
§0.現代に残る縄文の神々と思想(瀬川拓郎)
★沖縄の糸満漁民は縄文起源のイレズミ習俗を女性の成人儀礼として行うなど縄文伝統を近代まで受け継いでいた。
★南北端に限らず、いれずみ、抜歯、洞窟埋葬がおこなわれていたことが、肥前国風土記(※8世紀)による五島列島人の記述や、山形県の離島の飛島の狄穴洞窟などの埋葬跡(※9世紀頃)などからわかる。
時代は下っても日本列島の周縁世界、非農耕民の間には縄文性が根強く残っていた。
★出雲大社は96mとも。東大寺の大仏が45m。
★律令国家の祭祀を執り行ったのは縄文の呪能をもった人々。「卜部さん」とか。
§1.DNAが解き明かす人類による日本列島への旅(篠田謙一)
★ホモ=サピエンスの出アフリカは6万年前。10万年前にも行われたが、この時は中東でネアンデルタール人により阻止されている。
★欧州人の肌の色が白くなったのは1万年よりも新しい時代。
★アフリカを旅立ったのは1000人規模。
★シベリアのデニソワ人のDNAがパプアニューギニア人などに伝わっている。
★アフリカ人の中には未知の原人から受け取ったと思われる遺伝子をもつものもいる。
★最初に日本列島に人が現れたのは4万年前ほど。東南アジアから北上したと考えられる。
★残念ながら出土している人骨が極めて少なく旧石器人の実像についてはほとんど知ることができない。
★縄文人まで遡ることが確実な系統はミトコンドリアハプログループは2つ。M7aとN9bである。
★「二重構造モデル論」だけでは説明できないことが多い。均一であるはずがないし、周辺との交流などを考えると。
★現在の琉球列島集団はどこから来ているのか、12世紀からのグスク時代(ここで農耕社会へ転換)の主体は誰か?というのがポイントであるが、貝塚時代後期以降の人骨出土がすくなく不明な点が多い。
★琉球列島の現代人が持つゲノムは本土日本と明確に分離することが知られている。
★本土と琉球列島には「貝の道」と呼ばれる交易ルートがあった。
★5世紀から10世紀にかけてオホーツク海沿岸には沿海州起源のオホーツク文化が栄えた。
★近年の研究でアイヌの人々は単純に北海道の縄文人の子孫ではなくオホーツク文化人の遺伝的影響を受けていることがわかった。
★北海道では旧石器時代にさかのぼる人骨が出土していないので最初に到達したのが誰であったかを明らかにできない。
★ただ、北海道の縄文人のミトコンドリアDNAのハプログループは彼らと現在の大陸北東部の先住民の結びつきを強く示唆している。
★細石刃はシベリアから伝播したと考えられる。北海道の縄文人は南方からの移住者とは考えにくい。
<縄文人とは?>
★縄文人は地域によってミトコンドリアDNAの組成が違っており、
均一な縄文人と言う考え方など成り立たない。
★M7aの成立は2-3万年前で、旧石器時代と考えられる。
★北海道の縄文人は東アジア集団とは大きくかけ離れているが、他にも調べてみるとアイヌ、琉球、本土日本、台灣、沿海州の先住民なども同程度離れている。大陸の沿岸地域に居住した人々が縄文人になったと考えると説明がつく。
<弥生人とは?>
★弥生時代は全国同時期に移行したわけではないのでこのことが逆に弥生人の実態をとらえることを難しくしている。
(♨かつては弥生時代=「稲作」と「定住」であったが、稲作にしても定住にしても既に縄文時代から始められていることがわかった。現在では弥生時代の特徴は「本格的な稲作」と「金属」とされ、「農耕経済」か「獲得経済」かで区分されるようになったという。だったら、この時代は「獲得経済時代」と「農耕経済時代」の2つに分けて、縄文と弥生の区別なんてしなくていいじゃん!ってすら思う。)
★九州だけをとっても弥生人は3種類は区別されている。
★渡来系弥生人と考えられていたDNAを調査すると大陸由来という予想に反して現代日本人の範疇におさまるもので、さらにその中でも縄文人に近いものがあった。
※これが「弥生人が渡来した」のではなく、「縄文人が弥生人になっただけ」と言われる所以か。
★核ゲノムの解析で弥生以降の渡来が想定されたため、今後のシナリオは弥生~古墳時代における大陸からの集団の影響を考慮するものになるであろう。
★核ゲノムの解析まで行うと渡来系のミトコンドリアハプログループをもった遺骨も縄文人と現代日本人の中間に位置することが判明。
★弥生人は弥生時代に日本列島に居住した集団に対しての総称であり、均一な実態があるわけではない。
★弥生人と言う言葉を用いる場合は、渡来系を指して用いることが多いが安徳台遺跡の分析でわかったように、典型的な渡来系集団もすでに混血のプロセスを経ている日本の固有集団。渡来系弥生人ですら実態を遺伝的にとらえることが難しい。
(♨いずれにしても「弥生時代に大量の弥生人が渡来して来た」というような表現を見たら嘘八百と思うべし。)
<日本人とは?>
★縄文人は現代のアジア集団とはかけ離れた遺伝子構成をしている。
★現代の朝鮮半島には渡来系弥生人と同じ遺伝子構成をしている集団はいない。これまでは渡来系弥生人は当時の朝鮮半島集団と同一視するイメージがあったが、それを変える必要がある。
★渡来系弥生人が来たとしてもこの時期はまだ縄文人。さらに大陸からの流入を考えないと現代日本人の位置を説明することができず、そうなると
現代日本人が完成するのは古墳時代であろう
ということになる。
★古墳時代人骨のDNA分析は新たな日本人形成のシナリオを生むことになるはずだ。
★弥生時代は紀元前3-4世紀と言われていたが、約3000年前にまでさかのぼる。
★関東地方では古墳時代になって集団の遺伝的構成が大きく変わる。
★酒に強いか弱いかはアセトアルデヒド脱水素酵素の働きがカギとなる。欧州やアフリカには下戸タイプはほとんどいない。日本人はNN型(酒豪)が56%、ND型が38%、DD型(下戸)が4%という。D型の分布は水田稲作の源郷と重なることから、D型をもたらしたのは渡来系弥生人ではないか、と言われている。
<先史時代の日本列島>
★氷河時代が終わると気温は上昇し、海面は上昇。これにより形成された入り江は縄文人たちの豊かな漁場となった。現在の貝塚の分布は全国で2000、半数以上が関東地方であるが、
驚くことに群馬県、栃木県も海に面していた。
(縄文海進という)
★栃木県藤岡町ではシジミ、カキなどの貝類に加え、土器やシカの骨なども出土している。
§2.ここまでわかった縄文時代(山田康弘)
★縄文時代のはじまりは土器の使用、と考えられていたが、次第にそのような理解は困難に。
★現代の炭素年代法では現在最古の土器は1万6500年前。しかしこの時期は氷期であり、温暖化に伴いどんぐりなどの煮炊きを行うために土器を作った、という説明がつかない。旧石器時代から5000年ほどの長い期間を経て徐々に縄文時代となった、というのが正しい。
★朝鮮半島からほとんど土偶は発見されていない。呪術具も。対馬海峡が境界であろうか。
★北海道も土器がみつからない。土器が北回りでないことは言えそう。
★やはり縄文土器は日本列島で誕生したと言えそうである。
★縄文人の顔は世界に類例がなく、実にユニークである。
★農耕と定住を結びつけることは日本では不可能。縄文人とて大量の干し魚を持ち運ぶわけにはいかない。
★関東地方では大規模な環状集落が見つかっているが、西日本では小規模。
★マメ類が作られていた。
★土偶は妊娠した女性をかたどっていて母胎の象徴。
★平等社会と思われていたが特定の人が希少品を独占しており階層はあったと考えられる。
※たしかにそうに考える方が自然だと思う。
★木製網かご縄文ポシェット(三内丸山遺跡)はすごい!土製耳飾り(下布田遺跡)も!
<特別インタヴュー:高橋龍三郎>
★縄文後期人、パプアニューギニア人、アメリカインディアンは不思議なことに社会の仕組みにおいて氏族社会と言う共通項をもっている。社会システムにおいて縄文人に一番近いのが現代パプアニューギニア人である。そのため比較することでいろいろとわかることがある。
★土器の形式を細分化することよりも紋様の意味を理解しようとする方が大事(♨教科書でいう縄文時代を6分類にするやつね。あんなのはホント意味がないと思う。)。
土器をつくる女性たちは死後の世界などを考えながら土器をつくっており、怖い紋様もあり、内容を知らないでは迂闊に触れてはいけない。
★縄文人は現代日本人以上にパプアニューギニア人との共通項が多い。
§3.ここまでわかった!弥生時代(藤尾慎一郎)
★1978年、福岡市板付遺跡で世紀の大発見。縄文土器に伴い水田跡が見つかった。当時は土器で時代をわけていたが、水田稲作の時期と一致しないために板付遺跡は弥生時代のものとして、ここでの土器も弥生土器ということにした。
★さらに、2003年、水田稲作が紀元前1000年にはじまっていた可能性があるとして、さらに弥生時代が500年早まった。これは測定法の進歩による。
★日本に水田稲作をもたらしたのは青銅器文化人。水田を拓くのに適した場所は平野の下流域であるが、ここは縄文人にとっては利用価値は低かったようでうまく共存できた。
★縄文人が稲作にとびついたというのは過去の話。数百年を経て広まった。
★水田稲作がはじまって100年ほど経つと、社会の変質がみられる。環濠集落、戦死傷者、副葬品を持つ有力者の墓などがそれである。
★青森では300年ほど続けてきた稲作が洪水のため埋没した後、狩猟に戻った集団がある。弘前市砂沢遺跡。
★紀元前2世紀に東日本大震災と同レベルの津波が仙台であった。この地域では稲作が再開された。
★稲作・土器・金属器が弥生文化3セットであるが、これがそろうのに600年かかった。
★鉄器時代に入るのは九州北部で紀元前2世紀、西日本で紀元後1世紀になってからであると思われる。
★脊椎カリエスや寄生虫に悩まされてたりしていた。
<特別インタヴュー:松木武彦>
★一般には古墳の登場により弥生時代が終わるとされる。なぜ墓制の変化が生じたか?
★弥生時代の方形周溝墓などはかなり古い段階から出現。
★出雲、吉備で2世紀半ば以降に古墳につながるような墳丘墓。出雲は四隅が突出。吉備は円形の両側が突出(楯築墓)。これら突出がのちの前方後円墳などにつながる。出雲と吉備は古墳の直接の起源と考えられる。また、これらの地域は中国と独自に交渉をしていたことが考えられる。
★出雲から北陸の越にかけては大きさの違う四隅突出型墳丘墓がみられるのも特徴。墓によって身分秩序を著すと言う仕組み自体は出雲で生み出された。その時期、九州や近畿ではまだ青銅器で古い祀りをやっていた。
★のち倭国の乱。これにより出雲や吉備にかわりヤマトがイニシアチブを握る。彼らの墓の特徴は一か所が突出。
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