こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「シベリア出兵」第5章「沿海州からの撤兵」。
本書を読むまでシベリア出兵に関しての知識が全く無かったのですが、読めば読むほど日中戦争との類似点を感じずにはいられません。
ただ、日中戦争との違いとして、シベリア出兵時は、加藤友三郎がいました。
彼が撤兵を実現させました。
以下、読書メモです。
<第5章:沿海州からの撤兵ー1921年~1922年>
【1.極東共和国との交渉ー原敬首相の暗殺】
再びアメリカに接近するソヴィエト政府
★1920年秋、民主党は敗北し、共和党のハーディングが勝利。
※ソヴィエトはウィルソン時代には関係改善は期待できなかったと考えていた。レーニンはハーディング当選を見越してカムチャッカ半島における石炭、石油、漁業資源開発を約束にソヴィエト承認、米露防衛同盟を依頼していたが、日米を戦わせるための策略とアメリカ国内では警戒。
レーニンの誤算
★しかし、アメリカへの期待はしぼむ。
※彼が根回しをしていた鉱山技師ヴァンダーリップはハーディング政権に影響を与えられるほどの人物ではなかった。
★今度はドイツに接近。
※1921年5月に臨時通商条約。これが翌年のラパロ条約への布石。極東共和国もアメリカに頼らず日本と直接交渉に。
不評のシベリア出兵
★日本国内では各紙ともシベリア出兵批判。
外交交渉に応じた原内閣
★山縣の了解をとりつけた原は極東共和国との交渉次第で撤兵を決定。
※4月10日からのジェノヴァ会議にソ連も加わっていることから、このままでは国際社会から孤立することを恐れた。
田中陸相の辞任
★田中は心臓病を理由に辞任、上原は辞職希望するも山縣が許さず。
※宮中某重大事件で批判にさらされていたこと、裕仁親王が欧州歴訪していたことなども関係。欧州歴訪から帰ってきたが、辞任はさせず。山梨半造陸相とはなったが、「極めて平凡な人物」と言われた秋山好古参謀総長は実現せず。
極東共和国大統領の失脚
★モスクワの方針が最優先されることを物語る。
※つまり、モスクワの傀儡政権。
大連会議ー1921年8月~22年4月
★撤兵の代償に利権を求める日本と、撤兵なくして利権無を貫く極東共和国。隔たりは大きかった。
撤兵の代償を求める原首相
★原も当初は縮小に奮闘していたが、次第に何かしらの代償が必要と考えた。
ワシントン会議代表団への訓令
★原の基本姿勢はアメリカとの協調であったが、アメリカから何を言われてもウラジオストクや北サハリンからの無条件撤退はせず。
原首相暗殺
★1921年11月4日。犯人は18歳の山手線大塚駅職員。真相はやぶの中である。
※間もなく裕仁親王が摂政就任。翌年2月1日に山縣も死。
【2.ワシントン会議での「公約」-追い込まれた日本】
決着のついたロシアの内戦
★ロシアにおける反革命派の敗北、ワシントン会議における撤兵約束、国内での批判から1922年には撤兵を強いられる。
※反革命政府(メルクーロフ政権)も一時的にできたがすぐに追い詰められた。
ワシントン会議での撤兵「公約」
★幣原はシベリア出兵はシベリア在住の日本人の自衛のためと説明。
※しかしこれが新聞で報じられると、日本は撤兵を国際的に約束したとみなされるように。(!?)
撤兵を求める世論
★批判は強まる。
コミンテルンの指示と日本共産党
★撤兵運動にはコミンテルンも一役買っていた。
※1921年7月には上海で中国共産党、翌年7月には日本共産党が発足。1922年7月に日本共産党・堺利彦らに対露非干渉運動を指示。非共産党員である与謝野晶子らも運動に参加。労働運動の高まりとも相まって当局は危機感。1923年6月5日の共産党員一斉検挙、9月1日の大震災時の弾圧は危機感の裏返し。1924年3月、弾圧に耐えかねて日本共産党解党。
【3.無条件での撤兵ー加藤友三郎首相の決断】
大連会議の決裂
★原の後任は高橋是清に。
※しかし、結局、平行線に終わり会議は決裂。
高橋内閣の総辞職
★このままでは極東共和国との一戦もあり得たが、交渉再開依頼を受け交渉再開。
※しかし、政友会の内紛で内閣改造に失敗した高橋是清は6月6日、総辞職。
加藤友三郎の組閣
★重大な岐路でシベリア撤兵と軍縮を進めた加藤は現在も歴史家の評価が高い。
※元老松方正義の推薦で加藤友三郎海相が就任。加藤は政友会の党員ではないが間接的支持を得ていた。知名度は低いが、日本海海戦では東郷平八郎と共に三笠で指揮をとり、またワシントン会議では首席全権委員をつとめ、英米の政治家の信任も厚い。
【加藤友三郎】(1861~1923)
広島出身。海軍大学卒。1915年海相就任、1921年ワシントン会議で全権委任。軍縮推進し、1922年に首相就任。沿海州から撤兵を決断。国民の人気はなかったが実力は高く、英米の信任厚い。
沿海州からの撤兵決断
★加藤は撤兵をいそぐ。
沿海州各地からの撤兵
★反革命政府にとって日本軍撤兵は事実上の死刑宣告。
長春会議ー1922年9月
★会議の争点は北サハリン。尼港事件の解決と撤兵をセットにする日本側の提案にロシア側は反発。
ウラジオストク陥落
★極東共和軍による。日本が上陸してから4年3ヶ月。
「大日本帝国臣民」たちの脱出
★報復を恐れ日本人3386名はほぼ脱出(10月)。
※朝鮮人1万5000人は安全だろうとのことで政府の支給はなし。受け入れ先で混乱があったのも原因。
ロシア難民のその後
★亡命できたものはまだましで、そうでないものは収容所へ。
※神戸でチョコレート会社「モロゾフ」を創業したフョードル・モロゾフも亡命者の1人。
「出兵完了」の儀式
★1922年12月、青島からも撤兵(山梨軍縮)。余剰予算は火力と航空戦力に。外交調査会も廃止に。外交は内閣の手に。
※戦時体制を平常へ復帰させた加藤友三郎の功績は大きい。
※山縣亡きあと、陸軍主要ポストは田中派に。上原派との争いは醜いとの評判。征韓論以来の悶着とも。
ソ連誕生
★極東共和国は用済みとなりソ連に合流。
※1937年からのスターリンの粛清でクラスノシチョーコフ、ブリュッヘル、ウボレヴィッチといった極東共和国の主だった面々は粛清。シベリアの自治という点で彼らが再評価されるのはソ連崩壊後。
【年表】<1921年>
- 1・28 日華陸軍共同防敵軍事協定廃止に関し公文を交換
- 3・8 第10回ロシア共産党大会。新経済政策(NEP)採用
- 5・13 極東共和国との協定を結び次第、沿海州撤兵を閣議決定
- 5・26 ウラジオストクでメルクーロフ政権が誕生
- 8・26 極東共和国との大連会議が開催
- 10・25 原内閣、極東共和国との軍事協定案を閣議決定
- 11・4 原首相、東京駅で刺殺
- 11・5 ソヴィエト政府とモンゴルが修好協定を締結
- 11・12 ワシントン会議が開幕
【年表】<1922年>
- 4・3 スターリン、書記長に就任
- 4・16 大連会議が決裂 ドイツとソヴィエトがラパロ条約に調印
- 6・23 加藤友三郎内閣が10月末までのシベリア撤兵を閣議決定
- 7月 沿海州でヂチェリヒス将軍が権力を握る
- 9・4 極東共和国との長春会議が開幕、同月に決裂
- 10・25 ウラジオストクから日本軍が撤兵
- 12・30 ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立
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