こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「シベリア出兵」の第6章「ソ連との国交樹立へ」および、「シベリア出兵の総括」となります。
以下、読書メモです。
<第6章:ソ連との国交樹立へー1923年~1925年>
【1.孤立する日本ー中ソ接近への危機意識】
ソ連との交渉の立役者、後藤新平
★最後の問題は北サハリン。後藤新平が仲介役を買って出た。当時、東京市長。
後藤の秘めた目的
★後藤は東京市長を辞職してヨッフェとの交渉に臨むほど力を入れる。
※ただ、秘めた目的としては、加藤首相と内田外相が推進するアメリカ協調路線を快く思っていなかったことが挙げられる。後藤の考えは日中ソが提携して、米英に対抗するという構想であった。
協力した新潟県出身者たち
★堤清六(日魯漁業現マルハ)ら協力者たちは新潟県出身者が多く、ロシアへの関心が根本にあったかも知れない。
※他にも川上俊彦、布施勝治、芳沢謙吉らもそう。もっとも、北一輝、九博士のひとり建部もそうであったため、全員が同じ意見ではない。
政府内の反対を押し切って
★最終的に「一観光客」という立場でヨッフェ来日。
東京会議ー1923年2月~7月
★ヨッフェの条件は、①相互平等の権利の保障、②法律上の対ソ承認、③北樺太からの撤兵時期の明示。日本は尼港事件の見返りとして北サハリンを1.5億くらいで売却してもらおうと話すが、モスクワは15億位と設定。
東京会議の決裂と関東大震災
★後藤に代わった川上とヨッフェの会議となるも平行線。ヨッフェは更迭されカラハンに。しかし、日本はその後、加藤友三郎首相が胃がんのため死んだこと、関東大震災で交渉どころではなくなる。
※死者・行方不明者14万人。
第2次山本内閣の消極姿勢
★山本権兵衛内閣発足となるが、交渉には消極的。
※震災の救援物資とともに共産党員も入ってきたことも影響しているか?後藤は東京復興に集中。山本内閣は共産主義に共鳴する難波大助により起きた虎の門事件(1923年12月27日)で、即日辞任。
ソ連の中国接近
★1924年1月より山縣直系の司法官僚である清浦奎吾が組閣も6月で加藤高明に。
※加藤高明は憲政会総裁だが政友会、革新倶楽部も招き、「護憲三派内閣」を組織。
★2月、イギリスがソ連を承認。労働党内閣成立による。5月には中ソが国交樹立。
※1月、レーニン病死。前任のヨッフェは国民党支援だったが、カラハンは張作霖とも提携するという現実路線。モンゴルの独立承認、中東鉄道の経営にソ連も参加するなど決定。日本は焦る。
【2.北サハリン放棄と石油利権獲得】
首相としての加藤高明
★日ソ交渉をまとめあげ、北サハリンからの撤兵に導いたのは加藤高明である。
※岩崎弥太郎長女を妻。政治資金豊富。原敬とはライバルでもあり、戦友。加藤の腹心である若槻禮次郎が言うには、「加藤は老人を喜ばせることができないのに対し、原はできた」と。とりわけ山縣に嫌われる。
日ソ両国の交渉方針
★北サハリン買収は交渉の条件に入れず。ポーツマス条約の効力確認、尼港事件の謝罪、富源開発権など。
北京会議ー1924年5月~1925年1月
★日本軍の撤兵時期が問題に。双方の妥協のもと国交樹立。
日ソ基本条約の調印
★日本は共産主義の拡大を恐れた。コミンテルンの活動禁止を示した条件も採用。
※ソ連にとっては不利のようにも見えるが、1924年11月に保守党政権が誕生して英ソが関係悪化したことで、カラハンにも焦りが出たか。南樺太、千島の領有権確認。油田は産出地の50%を与え、ソ連の取り分は産出量の5-15%など決定。7年ぶりの国交。
治安維持法の制定
★1925年4月22日、治安維持法決定。
♨選挙と関連、という面もあるが、日ソ基本条約の成果で、という見方もあるんだな。
同床異夢の日ソ基本条約
★幣原は日ソ基本条約で日ソが同盟したと思われる誤解を心配し、アメリカ大使に説明。
※幣原は岩崎弥太郎四女を妻としていた。
★他方、スターリンは、「日本人が東洋においてもっとも進歩的な民族であり、抑圧された諸民族の解放に関心を抱いているのは間違いない。日本とソ連の人民の同盟は、東洋諸民族を解放する決定的な一歩となる。この同盟は、大植民地帝国と世界における帝国主義の、終わりの始まりとなるかもしれない」
※このように双方の思惑は異なった。
北サハリンの撤兵、南サハリンへの行啓
★1925年5月15日、条約通り、北サハリンから撤兵。
※日本人1700名は財産を捨てて南樺太へ。加藤内閣は日本人以外にも旅費を貸与。裕仁親王は南樺太を訪れ、本土との結びつきを示す。
北サハリンの利権獲得とその後
★唯一残された利権は石油と石炭。最初の3年は順調な経営を見せたが、その後はソ連による「圧迫の歴史」であったという。
※1937年に北樺太鉱業が操業停止、1941年に北樺太石油も日ソ中立条約の際に利権移譲。
【3.失われた人命と財貨ー7年間の戦争の結果】
日露の犠牲者数
★シベリア出兵で死亡者数は軍人だけで3333人。
※ただ、死因の1位は急性胃腸炎であったりスペインかぜであったり。病に倒れたものが多かった。死亡者数は尼港事件での民間人を含まない。ロシア側は数万単位。
日露の経済的損失
★臨時軍事費として7億程度が損失。さらにロシアの借金をソヴィエトが引き継がなかったことでロシアに売った武器の費用などが回収できず民間負担となった。
♨これが痛いと思う。しかし、失った時間とお金、人は返ってこない。そう考えると戦争はギャンブルに近いと思わざるを得ない。
機密扱いとなった史料
★陸軍は出兵にまつわる史料の公開に消極的であった。
※このため、一般人含め、何も学ぶことができなかった。
【年表】<1923年>
- 1・26 孫文=ヨッフェ共同宣言。ソ連の国民党支援が本格化
- 1・29 ヨッフェが来日、後藤新平が会談
- 3・3 レーニンが三度目の発作で倒れ、政治活動から離れる
- 6・28 川上俊彦ポーランド公使とヨッフェの会談開始
- 8・2 ハーディング米大統領が在任中に死去
- 9・1 関東大震災
- 11・8 ヒトラー、武装蜂起を企てて失敗(ミュンヘン一揆)
- 12・27 摂政の裕仁親王が狙撃される(虎の門事件)
【年表】<1924年>
- 1・7 清浦奎吾内閣が組閣
- 1・21 レーニン死去
- 2・1 イギリス(労働党内閣)、ソ連を承認
- 5月 芳沢駐華公使とカラハン駐華全権による北京会議開始
- 6・9 加藤高明内閣が組閣、外相は幣原喜重郎
- 9・18 第二次奉直戦争が勃発。張作霖が北京を掌握
【年表】<1925年>
- 1・15 トロツキーが陸海軍人民委員を解任される
- 1・20 日ソ基本条約調印。ソ連との国交樹立。
- 5・15 日本軍、北サハリンより撤兵
- 12月 ロシア共産党が全連邦共産党と改称
<終章:なぜ出兵は7年も続いたのか>
もともとは第1次世界大戦の一環として始まったシベリア出兵であるが、大戦後も長く居座り、多大なる犠牲を払うことになるが得るものはほとんどなかった。なぜこのような長期戦になってしまったのか。
考えられる原因は3つほど挙げられる。
①「統帥権の独立」
★原首相がシベリア出兵を抑制するには3つの壁が立ちはだかった。
1つは首相が国務大臣に命令できないということ。
そのため陸相、海相と協力関係にある、というのが大前提。
(その点、田中義一、加藤友三郎は協力的であった。)
2つ目の問題は参謀本部。
これがことごとく反対。閣議決定を外交調査会で権威づけ押しつける形で乗り切る。
3つ目は参謀本部の背後の元老。
しかし、1921年にはこれらの壁は解消できていた。それなのに撤兵できなかった理由は残りの2つ。
②親日政権の樹立に失敗
★軍事的には当初、成功していた。しかし、そもそも日本はソヴィエトを国家として認めていないので、日清日露のように国家間で条約を結ぶことができなかった。さらに戦争ではなく出兵であること、各国との共同であることが交渉による撤兵をより難しいものに。
日本にある道はソビエトを国家として認め、撤兵の代わりに協定を結ぶか、ソビエトを国家として認めず、日本に有利な撤兵協定に応じる親日政権をシベリアに樹立することであるが、日本は後者をとり、失敗した。
結果的にソビエト政府を過小評価したのである。
③「死者への債務」
★出兵して何も得ずでは負い目があった。自らの間違いを認めることができず、死者への債務はあらゆる時代に起きる。
開戦の決定は華やかで勇ましいが終わらせることがいかに難しいかを戦争は教えてくれる。
加藤友三郎が撤兵できたのは政党の利害関係がなかったから。
拡散していく出兵地域と迷走する大義
★撤兵に手間取る間に出兵地域は拡散。
※政友会、財界、新聞にも責任があるが、石橋湛山、与謝野晶子、中野正剛のように一貫して撤兵を主張していた言論人がいることも無視すべきではない。
シベリア出兵と日中戦争の類似
★ロシア難民を多く見たことは白人に対する劣等感を希薄化させたという話も。
※もっともこれは1人の軍人の回想録に依る記述であるが。
★政府の方針に軍部が抗って二重外交となったこと、さまざまな工作、特務機関、傀儡政権などシベリア出兵が起源とする研究者も。
※もっとも、軍部と政府の対立は明治維新以来たびたびある。
★緒戦で大勝するも、広大な舞台で神出鬼没の非正規軍に悩まされ、現地の住民を敵視し、結果的に四方を敵に回して兵が疲弊していく、というのは日中戦争に酷似。日中戦争はシベリア出兵に参加した多くの将校が出世して指揮をとっているが、シベリア出兵時の経験が生かされていないのがシベリア出兵のさらなる悲劇である。
★シベリア出兵は政府が軍部を従わせて撤兵に成功した最後の戦争であった。満州事変をきっかけに政府と軍部の地位は逆転。歴代の内閣で撤退を決断できるほどの指導者も欠いたことがシベリア出兵と日中戦争の違いでもあった。
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