こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期①:1268年」です。
江戸時代の幕末を「ペリー来航」からとするならば、
鎌倉時代の幕末はこの「蒙古国牒状」からでしょうか。
ただ、江戸幕府と鎌倉幕府、両者の対応は全く異なりました。
以下、年表を整理していきたいと思います。
文永5年(1268年)年表
1/16 | 朝廷、大蒙古国の国書を受け取る ※フビライは1264年、弟のアリクブケとの皇位継承争いに勝利した。 ※実は1266年に国書を渡すはずであったたが、案内役を命じられた高麗国が荒波を理由に出航せず。 ※今回はどんなことがあっても届けろ、とフビライが激怒していた。 ※外交窓口は太宰少弐・武藤(少弐)資能。 ※国書はかなり丁寧なものだったと言える。 ※ただ、朝廷(関白・近衛基平)はこの国書を黙殺することを決定。これには幕府の意向も働いていた? ※当時は後嵯峨上皇の院政時期。 |
2/27 | 幕府、御家人たちに蒙古への警戒を通達 ※執権・北条政村、連署・北条時宗の名で、讃岐国守護・北条有時に対し、「蒙古が凶心をもって日本を窺っているので用心するように」と通達。 ※モンゴルとの一戦を想定していたと考えられる。 |
3/5 | 北条時宗、第8代執権就任(※2) ※鎌倉幕府、執権(北条政村)と連署(北条時宗)を入れ替える ※執権から連署への降格は異例の人事 ※政村は引き続き政宗を支える。当時の中心人物は、安達泰盛、平頼綱、北条実時ら。 |
5 | フビライ、使節団の返答を待ちきれず、南宋と日本の征討を宣言。高麗国に船1000艘作成を命じる。 |
8 | 高麗使節団、幕府からの返答がなかったために帰国 |
8 | 世仁親王(のちの後宇多天皇:91代)立太子 ※当時齢8ヶ月。 |
(※1)「蒙古国牒状」、日本に届く!
当時、大陸ではモンゴル帝国が版図を広げておりました。
モンゴル帝国第5代皇帝、フビライ(クビライとも)は、1264年、弟のアリクブケとの争いを制して、正式に皇帝となります。
フビライは高麗国を傘下におさめ、次は南宋を狙っておりました。
モンゴル帝国の傘下におさまろうとするグループ(文官グループと称されることも)に分かれ対立し、
最終的にモンゴル帝国傘下におさまろうとする文官グループが主流となりました。
さんざん「こき使われ」て、民衆も疲弊させてしまう、
という苦しみを味わうことになるんですな。
井上靖先生の「風濤」(ふうとう)という名作、読んだ?
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戦わないことで隷属の道を歩む先例はありますからね。
日本史の教科書にも出てきますね。
1273年まで抵抗運動が続きました。
そしてフビライは南宋攻略に向けて、南宋と交流のある日本に目をつけました。
あ、もちろん、親は私たちです。
ホントは1266年に国書を渡すはずでしたが、
案内役を命じられた高麗人が「波が荒い」などの理由で遣いを送りませんでした。
日本行きとか辞めときません?
(鎌倉武士は、手強いですし…)
それにお前の意見なんか聞いておらん!
次こそ行け、これは命令だ!ヽ(`Д´)ノプンプン
フビライは激怒し、2回目の出航命令は高麗人だけに下されました。
そして彼らが日本に辿り着いて届けられたのが、この「蒙古国牒状」です。
本来1266年に届けられるべきものだったからなんですね。
最後の「武力に訴える」って言葉が良くなったのかなぁ、、、
日本側の窓口は武藤資能。
その役職から「少弐資能」(しょうにすけよし)と言ったほうがわかりやすいでしょうか。
資能は朝廷に伝えるとともに、幕府にも伝えたと考えられています。
朝廷では会議の末、関白・近衛基平が「黙殺」を決定しました。
返書を送ることを主張する公家もいたのですが、基平が黙殺を決定したのは、幕府の意向があったからではないかとも言われております。
もっとも変に返書されて今、攻めて来られても困るし…
こうして、1268年の国書は、「黙殺」されます。
(※2)執権・北条時宗誕生!
北条本家の時宗(1251-84)が北条政村ら一門の長老たちに支えられて18歳の若さで執権の座につき、元への対応を指揮することになった。
「詳説日本史研究」p153
私は生まれながらに執権となるべく英才教育を受けました。
側室の子であったために、時輔殿は時頼殿を支えるべく育てられました。
のちに兄弟間で反目することになるのですが…
ちなみに、1268年の時点で政村殿は64歳。
皆のもの、蒙古国の凶心に用心せよ!!