こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期④:1272-3年」です。
日蓮は法華経を信じなければ「内乱」と「侵略」が起きると予言しました。
その「内乱」にあたるのが、1272年に起きた「二月騒動」でしょうか?
「二月騒動」を経て、得宗家(=北条時宗)はより強い力を持つこととなりました。
文永9年(1272年)年表
2/11 | 二月騒動①(@鎌倉)(※1) ※評定衆の名越(北条)時章・教時兄弟が得宗家御内人・四方田時綱(しほうでんときつな)らにより誅殺される。 ※しかし、謀反は誤りだったとされ、四方田時綱らは処刑される。 |
2/15 | 二月騒動②(@京都)(※2) ※鎌倉からの早馬を受けて六波羅探題北方・北条義宗が、六波羅探題南方・北条時輔を討伐する。 |
2/17 | 後嵯峨法皇(第88代)崩御(※3) ※彼が両統迭立、南北朝分裂の原因を作った。 |
文永10年(1273年)
4 | 元、三別抄の乱、平定 ※高麗の抵抗勢力を滅ぼす。 ※南宋もほぼ制圧し、日本侵略に専念できる状況が整った。 |
5/27 | 北条政村、死去 ※連署として若き時宗を支えてきた。69歳。 ※後任は一門より北条義政(北条重時5男)。 |
(※1)鎌倉にて
第2代執権、北条義時には息子が何人かいました。
長男・泰時、次男・朝時(ともとき)、三男・重時、四男・政村らです。
しかし、次男・朝時だけは、長男・泰時と微妙な関係でした。
泰時が側室の子であるのに対して
朝時は正室の子なんですね。
そうした微妙な人間関係があります。
ただ、同じ比企家であっても朝時の同母弟、三男の重時は泰時をよく補佐しました。
その息子である長時も得宗家をよく補佐し、時宗が成長するまでのつなぎとして、6代執権を務めました。
問題は次男の朝時なんです。
ちなみに、朝時の「朝」は第3代将軍・実朝様より偏諱頂いた名前です。
祖父・時政の住んでいた名越邸を引き継いだため、「名越朝時」とも呼ばれますが、北条一族です。
そのため、光時が流罪、時幸が自害となりました。
三男と六男は得宗家を支えたものの、
次男(時章)と五男(教時)が今回の「二月騒動」で謀反の疑いをかけられました。
事件後、時章どのを殺したのは「誤り」とされ、むしろ討ち手の5人が処刑されてしまっているという不可解な事件でした。
得宗家に近い人材で重要地域を固めたのです。
ちなみに安達泰盛は第5代執権・北条時頼(時宗の父)が従兄弟の関係にあります。
【まとめ】
二月騒動①(@鎌倉)
北条義時の次男・北条朝時は何かと長男・北条泰時を脅かす存在であった。
→朝時の長男・四男は「寛元の政変」で執権転覆を狙うも失敗して失脚。
→次男・五男が今回、謀反の疑いで誅殺された。
(ただ、謀反は誤りとされ、討ち手が処刑される)
→誅殺された名越家の九州の所領は得宗家の外戚・安達泰盛が引き継いだ。
→結果的に得宗家の力が強まった。
(※2)京都にて
8代執権・北条時宗には3歳年上の兄がいました。
北条時輔と言います。
しかし、側室の子であったために、幼い頃から時宗を補佐するように教育されました。
そして、時輔は1264年、「六波羅探題南方」として京都に出向します。
京都を管理する六波羅探題には北方と南方があり、「北方」は長らく北条重時(北条義時3男)の一族が務めていました。
重時の後はその息子の長時(のちの第6代執権)が継ぎ、
長時が評定衆に任命されたあとは、その弟の北条時茂が継いでおりました。
しかし、1270年、時茂が31歳の若さで亡くなったため、北方は不在となっておりました。
その結果、六波羅探題は南方の時輔の影響力が増していったと考えられております。
ところが、1271年12月、北条長時の長男、北条義宗が六波羅探題北方に就任します。
そして、2月、この義宗によって、南方の時輔が「謀反の疑い」を理由に討ち取られるのです。
【まとめ】
二月騒動②(@京都)
北条時宗には異母兄・時輔がいた。
→時輔は六波羅探題「南方」に就任していた。
→「北方」は1270年以来、不在。
→時輔の存在が増す。
→時輔を謀反の疑いで誅殺。
→元への脅威を前にして国内の対抗分子に成り得る存在を抹殺。得宗家の力が増す。
それをやろうとしたのが井伊直弼だったのかも知れないけど、たとえば徳川斉昭、慶喜を殺すまではさすがにできなかったであろう。
いずれにしても鎌倉時代と江戸時代ではシステムもキャラクターもだいぶ違う。
(※3)第88代:後嵯峨天皇
【後嵯峨天皇】(1220-1272)
1242年、いたずら好きの四条天皇が他人を驚かそうとしたところ、自分がすっ転んで頭を打って死亡。享年12歳。跡継ぎなし。そのため、後鳥羽天皇の血筋から天皇を選ばなければならなくなった。
当時、皇位継承は幕府の承認を得ることが慣例となっていたが、朝廷の推す忠成王(後鳥羽天皇第3皇子:順徳天皇の息子)に対して幕府は邦仁王(後鳥羽天皇第1皇子:土御門天皇の息子)を推した。
これは順徳天皇が積極的に討幕計画に参加したのに対して、土御門天皇は消極的だったためである。
そのため、邦仁王が後嵯峨天皇として即位。後嵯峨天皇は、それまでの慣例に習い、以後の皇位継承も幕府の内諾を得てから行うようになった。
また、後嵯峨天皇は自分の次に、第3皇子を後深草天皇として即位させた。
しかし、後嵯峨は後深草よりもその弟・のちに亀山天皇を愛しており、後深草天皇を退位させ、亀山天皇を即位させた。
さらに、亀山天皇の皇太子には亀山天皇皇子の後宇多天皇を選んだ。
しかし、その次の皇太子および自分の後の治天の君は幕府に一任した状態で崩御した。
後宇多天皇即位に不満を抱いていた後深草上皇は、自分の息子(のちの伏見天皇)を後宇多天皇の皇太子にするよう幕府に取り計らい、混乱が助長した。