こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期⑤:1275年」です。
元の撤退後、幕府は次の襲来に備えます。
文永12年/建治元年(1275年)年表
2 | 「蒙古警固結番」 ※「異国警固番役」強化。九州の御家人を4班に分けて交代で警固に当たらせる辞令。 |
4/15 | 元使・杜世忠ら、日本に到着 ※再び服属を求める |
4/25 | 「建治」に改元 ※後宇多天皇即位2年目(9歳)。 |
5/12 | 長門警固番役の強化 ※九州の「異国警固番役」に対して、本州は「長門警固番役」。 ※長門国だけでは不十分とし、安芸、周防、備後国の御家人も交代で番役に。 ※翌年はさらに播磨、備前、備中、美作国の御家人も番役に。 |
9/27 | 元使・杜世忠らを鎌倉竜の口で斬る(※1) ※抗戦の意志を内外に示す。 |
10/3 | 肥後国御家人竹崎季長、安達泰盛に勲功を訴える ※恩賞に漏れたと、鎌倉に赴き、誰彼なく訴え、最終的に安達泰盛に辿り着く。 ※季長は戦っている間に所領がなくなってしまっていた。 ※このやりとりは「蒙古襲来絵詞」に描かれる。 |
10/28 | 阿弖河荘民の訴状(※2) ※紀伊国。寂楽寺領。地頭湯浅氏の非道を荘園領主に訴えた。 |
11/1 | 竹崎季長、肥後国恵利地頭職を得る ※季長は安達泰盛へ感謝。 |
この頃、マルコ=ポーロがフビライに謁見したと言われる。 |
(※1)再び戦争の予感…
フビライは日本征服の望みを捨てず、1275年には使者杜世忠(とせいちゅう:1242-75)を長門へ送った。
「詳説日本史研究」p154
しつこい奴め…
時宗は使者一行5人を鎌倉で切り捨てて抗戦の意志を内外に示すとともに、博多湾岸など九州北部の要地を御家人に警備させる異国警固番役(いこくけいごばんやく)を強化し、博多湾沿いには石造の防塁を構築して元の襲来に備えた。
「詳説日本史研究」p154
このときの石塁がのちの弘安の役で役に立つのだ。
最近では「防塁」とか「石築地(いしついじ)」と称される。
せっかく日本史の教科書に載ったと思ったら斬り捨てられちゃったよ!
警固の強化とともに、長門国守護には得宗家一門を配置しよう。
今回の番役で御家人の負担は2割増しです…
そのうえ、土地が増えるわけではなく…
得宗家の独り勝ちだ…
これを期に全国の兵粮米を徴集する権利を得たのも大きい。
(※2)阿弖河荘民の訴状!
(農民たちは)一味同心し、領主に年貢の減免を請願したり、非法を働く領主の代官の罷免を求めた。朝廷や幕府の法廷に出向き、訴訟をおこす主体にもなった。
「詳説日本史研究」p158-9
地頭があかんねん!
荘園領主様に言われたように山へ木を切りにいったら捕まえられて、人夫として働かそうとすんねん!
そのうえ、抵抗すると耳を切ったり、鼻を削いだりすんねんって!
この頃、力をつけた地頭や非御家人の新興武士たちが武力を行使して年貢の納入を拒絶したりするようになるんですよね…
彼らは近隣荘園に討ち入り、略奪など反幕府・反荘園領主的活動を展開するのです。
そんな彼らは「悪党」と呼ばれます。