こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期⑩:1281年」です。
前回の3倍以上の人数で元軍が攻めてきました。
最終的に「神風」により元軍が撤退したのですが、
3ヶ月にも渡り元軍の九州上陸を許さなかった武士たちの奮戦こそ記憶に留めるべきでしょう。
弘安4年(1281年)年表
2/18 | 肥前守護少弐経資、同国の武士に戦闘準備指示 ※前年の時宗の関東御教書を受けて。 ※「楯と石築地上の垣楯を用意して、3月1日までに要害所に来るように」と指示。 ※鎌倉はともかく、九州では急ピッチで戦闘準備が進んでいた。 |
4 | 無学祖元、元の侵略を察知 ※「莫煩悩、驀直去」と時宗にアドバイス。 |
5/3 | 元軍の先発隊(東路軍)、朝鮮半島の合浦を出発 ※総大将:忻都(きんと=ひんどぅ)は、モンゴル人であるが、「インド」を意味する「ヒンドゥー」という名前。高麗制圧の立役者であったが、文永の役では戦果を上げられず、日本再征を志願していた。 |
5/21 | 対馬上陸戦 (「弘安の役」)(※1) ※14-15万人、4400隻。 ※南宋人が10万を占めた。彼らは元では最下層であるが、日本を征服したら支配層に入るため、決して士気が低かったわけではない。 ※先発隊(東路軍)が対馬上陸するが、日本軍は激しく抵抗。 |
5/26 | 元軍、壱岐島侵攻 ※対馬、壱岐をおさえて、次は博多湾上陸を目指す |
6/6 | 元軍、志賀島(しかのしま)上陸 ※博多湾からの上陸を断念。 ※防塁のない志賀島に上陸。 ※しかし、日本軍はここでも執拗なゲリラ攻撃で応戦。 |
6/9 | 元軍、志賀島撤退 ※日本軍の攻撃がすさまじく、壱岐島に後退。 ※さらに日本軍は追撃を行う。 |
6/- | 後発隊(江南軍)、到着 ※後発隊は平戸島、鷹島に停泊する。 ※この方角の防御が薄いと判断した。 |
6/28 | 幕府、九州および中国地方の荘園領の兵粮米把握 ※非常時を理由に、幕府の権限が及ばない荘園の年貢米を兵粮として徴収できる権利を得た。 |
6/29 | 壱岐島の戦い ※壱岐島に停泊していた先発隊(東路軍)を日本軍が追撃。 ※東路軍は壱岐島を捨てて、江南軍との合流を目指す。 ※この追撃戦の傷がもとで老将:少弐資能、死亡。 |
7/27 | 海戦開始 ※元軍は先発隊と後発隊が合流。 ※日本軍が軍船を率いて攻め込み、鷹島沖合で海戦開始。 |
7/30 | 台風 ※後世に伝わる「神風」。海上に停泊していた元軍は大打撃。 ※撤退するも逃げ遅れた元軍もいて、日本軍は掃討戦を行う。 ※鷹島(長崎県松浦市)では現在も元軍の遺物が海底から見つかる。 ※無事に帰国した元軍は1/4程度と言われる。 |
(※1)弘安の役
台風のおかげというより、武士たちが3ヶ月近くに渡って、元軍の上陸を許さなかったのが大きい。
防戦一方ではなく、相手が停泊してるところまで乗り込んでいるのも凄まじい。
その時の傷がもとで少弐資能さまはお亡くなりになったが…
(84歳というのにも驚愕。)
前回から7年あり、防塁を築く時間があったのが幸いした。
新たに土地が入ったわけではないから、恩賞もらえるんだろうか…
だから日本行きは辞めた方が良い、って言ったじゃないですか!
ぐぬぬ。よし、こうなったら3度目の遠征じゃ!
え?まだやるの?
南宋の武人たちを始末できたと考えれば良いんじゃないんですか?
よくないわい!
帝国の威信にも関わる!