こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期⑪:1282-3年」です。
早くもフビライは3度目の遠征準備を開始します。
一方、北条時宗は戦死者を祀るため円覚寺を建立しました。
日本兵はもちろん、元軍の兵士も祀りました。
弘安5年(1282年)年表
3/1 | 一遍、北条時宗に出会い、鎌倉での布教を断られる。(※1) ※一遍(44歳)、鎌倉入りを試みる。 ※ちょうど別荘に向かうところだった時宗(32歳)と一遍が、巨福呂坂で出会う。 ※一遍は鎌倉入りを拒否される。 ※この時の様子が『一遍聖絵』に描かれる。 |
7 | 安達泰盛、陸奥守兼任 ※当時52歳。秋田城介に加えて陸奥守も兼任。 ※陸奥守は北条一門が務めることが多かった。これは安達泰盛の権勢が北条氏の域になりつつあることを示す。 ※同時に平頼綱ら得宗家家臣勢力(御内人)との対立も厳しさを増していった。 |
10/13 | 日蓮死去 ※61歳。 ※死の5日前に日昭らを弟子6人を「六老僧」として、後継者に託す。 |
12/8 | 北条時宗、円覚寺建てる ※無学祖元を開山とする ※敵兵も祀った |
12 | フビライ、征東行書を復活させる ※弘安の役後、廃止していたが復活させる。 ※3度目の来襲準備。 |
弘安6年(1283年)年表
6 | フビライ、国内情勢のため3度目の来襲中止 ※国内の疲弊、チャンパー王国(ベトナム)の抵抗などによる。 |
8/15 | 隆弁、死去 ※隆弁…京都の貴族、四条隆房の子。鶴岡八幡宮寺のトップに37年間君臨。76歳。 ※幕府に関わる重要な祈祷、修法ではかならず中心的な役割を務め、尋常ならぬ法力を発揮したと伝えられる。 |
(※1)一遍、時宗(じしゅう)、踊念仏
一遍(1239-1289)
伊予の豪族のもとに誕生。10歳で仏門に入る。35歳で家や土地などを捨て遊行の旅に出た。紙製の念仏札を配る「賦算」と「踊念仏」で知られる。
今風に言うと、「Buzzった」んですかねー。
平安時代の空也さんに倣って踊念仏やってみたら、バカ受けしましたー。
阿弥陀仏を信仰の対象にしている点で浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、時宗(一編)は一緒ですが、段々易しくなっていくんですねー。
法然(念仏を唱える努力を必要とする)
→親鸞(信じる心があれば救われる)
→一遍(努力しなくても、また信不信にかかわらず、名号を唱えれば救われる)
ただ、鎌倉時代に影響を及ぼしていたのはいまだに旧仏教でした。
幕府に庇護された臨済宗を除き、新仏教が盛んになるのは江戸時代くらいなんです。
一遍さんって、死ぬ前に持ち物全部燃やしちゃったんだっけ。
ちょっと変わった人だな。
総本山は「清浄光寺(しょうじょうこうじ)」、
神奈川県の藤沢市にあります。
(※2)北条時宗、無学祖元、円覚寺
北条時宗は蒙古との戦いの死者を弔うために円覚寺を創建しました。
臨済宗のお寺です。
開山は「莫煩悩、驀直去」の無学祖元でした。
実際に、鎌倉の円覚寺を見ましたが、質実剛健、といった感じでした。
日本兵のみならず、元の兵も祀ったという点が興味深いです。
時宗公は元からの使者を斬り捨てたりと、苛烈なイメージがあるけど、どうなんだろう?
「特別な才能があるわけではないけど、たまたま元寇時に執権職にあった気の毒な人」的な評価に変わってますね。
もちろん、国難を救った代表者ではあると思うのですが、、