こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期⑳:1298-9年」です。
「永仁の徳政令」は一部撤回されるなど混乱を生じ、
「持明院統」と「大覚寺統」の争いは激化。
良かったことは、テムルと北条貞時政権下で日元の戦争リスクが下がったことくらい。
それでも幕府は戦争に備えることを怠りませんでした。
元からの使者、一山一寧をスパイと疑い捕縛します。
永仁6年(1298年)年表
2/- | 永仁の徳政令、一部変更 ※「越訴」および「御家人の所領売買・質入れ」の禁止が解かれる |
7/22 | 後伏見天皇(持明院統)即位(第93代) ※後伏見天皇は当時11歳。伏見上皇が院政を開始。 ※今度は大覚寺統が幕府に訴えた。幕府は煩わしいため、順番に皇位を継ぐ「両統迭立」方針を打ち出す。 ※そのため大覚寺統より後宇多天皇(第91代)の第一皇子、邦治親王が立太子。のちの後二条天皇となる。 ※この時の執権は北条貞時で、両統迭立が正式に決定する「文法の和談」は1317年の北条高時の時代。 |
– | テムル、家臣より第3次日本遠征を求められるが拒否 ※以後、計画が持ち上がることはなかった。 |
永仁7年/正安元年(1299年)年表
4/25 | 正安(しょうあん)に改元 ※後伏見天皇即位による |
秋 | テムル、一山一寧を日本へ遣いに(※1) ※朝貢を促す内容であった。しかし、フビライと異なり低姿勢。 ※幕府は一山一寧をスパイと考え幽閉するも、一山一寧が徳の高い僧とわかると厚遇に転じる。 ※北条貞時も一山一寧の教えを受けた。 ※その後、再建された建長寺の住持を務めたり、後宇多上皇の要請で南禅寺(@京都)住持などを務めた。 |
– | この頃、マルコ=ポーロ「東方見聞録」成立 |
(※1)一山一寧
1299年、元から来日。鎌倉の建長寺・円覚寺や京都の南禅寺の住持に迎えられて、朱子学や五山文学隆盛の基礎を築いた。
「日本史のライブラリー」p115
朱子学っていうのは元に滅ぼされてしまった宋人のアイデンティティーだねー。
そして、その朱子学が江戸時代になると幕府御用達の学問となる。
鎌倉時代の臨済宗の来日僧と執権との関係はおさえよう(↓)。
仏僧 | 生年(来日年) | 執権 | 備考 |
---|---|---|---|
蘭渓道隆(らんけいどうりゅう) | 1213-1278(1246) | 北条時頼 | 建長寺開山 |
無学祖元(むがくそげん) | 1226-1286(1279) | 北条時宗 | 円覚寺開山、元寇 |
一山一寧(いっさんいちねい) | 1247-1317(1299) | 北条貞時 | 南禅寺住持など |
もともと、元の使者だったんですが、
あれよあれよという間に日本に長居します。
(※2)五山文学
臨済宗は鎌倉幕府から保護を受けておりました。
それは室町時代にも継承され、「五山・十刹」(ござんじっさつ)と呼ばれる「お寺ランキング」が作られました。
そこの僧たちがたしなんだ漢詩などの文学が「五山文学」です。
夢窓疎石、義堂周信、絶海中津といったあたりが有名ですね。
一山一寧と違い、彼らは日本人。